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「誘惑」

2021年1月3日 降誕節第2主日礼拝

説教題:「誘惑」

聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書 4章1-11節(4-5㌻)    

説教者:伊豆 聖牧師


人が何か物事を始めるためには準備が必要だということは先週お話しました。そして主イエスにとってその何かとはこの地上での伝道であり、その伝道のための準備とは洗礼者ヨハネによって洗礼を受けることであったという事もお話したと思います。しかし、主イエスがこの地上での伝道の準備のためにしなければならない事がもう一つありました。それは悪魔から誘惑を受けることです。多くの聖書に登場する人物が悪魔から誘惑を受けてきた、もしくは神から試みられてきました。蛇にそそのかされて、神から食べてはいけないと言われた木の実を食べたエバとアダム、神に息子イサクを捧げよと言われ、捧げようとしたアブラハム、そして神に従った生活をしていたのですが、神に従っているのは、神がヨブを祝福しているからだと悪魔が主張し、神が悪魔に、ヨブに災厄をもたらす事を許し、結果として不幸に見舞われるヨブなどです。悪魔からの誘惑はたとえ相手が神の子であっても変わらず与えられます。

本日の聖書箇所マタイ4章1節です。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」“霊”とは神の霊もしくは聖霊だと考えられます。荒れ野は人が生きていくには過酷な土地です。そして、古来、悪魔や悪霊が住んでいると考えられてきました。ですので、人が試されるには適した環境であったともいえます。主イエスはそこで「四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」と2節にあります。四十日間という期間は聖書で人が試みられる時によく使われる期間です。例えば、モーセが十戒を受け取るためにシナイ山に登りそこで主と共に四十日四十夜、断食をして過ごしたということが出エジプト34章28節に書かれていますし、預言者エリヤは神の山ホレブに着くのに四十日四十夜歩き続けたと列王記上19章8節にあります。ですから主イエスの荒れ野での四十日四十夜の断食もこれらに倣ったものだと考えます。

主イエスが断食し、空腹を覚えた時、悪魔が来て主イエスを誘惑します。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と悪魔が主イエスに言いました。(マタイ4:3)

食べ物は誘惑の材料の一つとして効果的な物です。先程すでに申し上げましたが、アダムとエバは蛇にそそのかされ神から食べては いけないと言われていた木の実を食べました。ヤコブの兄のエサウは外で狩りをし、一旦家に帰るのですが、空腹であったため弟のヤコブが煮ていた食べ物と長子の権利を交換してしまいます。アダムとエバもエサウも食べ物と引き換えに大事な物をなくしてしまいました。アダムとエバがなくした物は神との良好な関係、エサウがなくした物は長男としての権利でした。果たして主イエスはどう対応したでしょうか。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という申命記8章3節の聖句を引用し、悪魔の誘惑を退けます。神の言葉によって悪魔を退けたのです。

悪魔の狡猾な所が次に見られます。主イエスを聖なる都に連れて行って、神殿の屋根の端に立たせて、飛び降りてみよと言うのです。悪魔は詩篇91:11−12に書かれている聖句「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」を引用して主イエスをけしかけます。しかし、主イエスはこれに対して別の聖句を引用し、この悪魔の申し出を退けます。申命記6章16節の「あなたの神である主を試してはならない」

最後に悪魔は主イエスを高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその繁栄ぶりを主イエスに見せて、悪魔を拝めば、これを与えると主イエスに言います。主イエスは10節で申命記6章13節の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という聖句を引用し、悪魔を退けます。

主イエスは悪魔から3つの誘惑を受けました。最初の誘惑は石をパンに変えてみてはどうかというものでした。もちろん、主イエスは断食の後空腹でしたし、後に数々の奇跡を行ったことを考えれば、石をパンに変えることなど造作もなかったことでしょう。しかし、主イエスはそうなさらなかった。なぜか?それは主イエスがそこで奇跡を行い、石をパンにすることを父なる神が望んでいないと分かっていたのではないでしょうか。主イエスは父なる神のご意思である御言葉により頼みました。それこそが、父なる神がこの場で主イエスに望んでいることなのです。主イエスはアダムとエバのように、エサウのように食べ物のためにこの大切な物を放りだしたりなさいませんでした。主イエスがこの時引用した「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という御言葉は前に申し上げたように申命記8章3節に出てくる御言葉です。申命記とはモーセが亡くなるにあたってイスラエルの民に残した遺言です。この申命記8章2節から5節にはこう書かれています。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。」

イスラエルの民はこの四十年の間、神に水がない、食べ物がないと不平、不満を述べてきました。いわば、イスラエルの民は神のこのテストに落ちたのです。しかし、主イエスはイスラエルの民と同じ様にテストを受けましたが、合格しました。父なる神により頼んだからです。

2度目の悪魔からの誘惑も同じです。悪魔は詩篇91:11-12を引用し、主イエスに飛び降りてみよと迫ります。悪魔が言っていることは聖書に書かれているのだから、表面上正しいことのように思えますが、神の御心ではないということを主イエスが引用した申命記6章16節の「あなたの神である主を試してはならない」で明らかにしました。イスラエルの民は荒れ野の四十年間の生活の中で何度も主なる神を試し、神の怒りを引き起こしました。その意味でもイスラエルの民は神のテストに失敗したと言えます。しかし、主イエスはこのテストに見事パスしたと言えます。

最後に悪魔はこの世のあらゆる国々、栄華を見せ、主イエスに自分を拝めば、これを与えると誘惑します。富と名声は人を魅了します。これに抗うのは大変なことですが、主イエスはやはり申命記6章13節の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」を引用し、悪魔を退けました。そして、悪魔が離れ去り、天使が主イエスに仕えたとマタイ4章11節にあります。イスラエルの民は荒れ野の生活で主から離れ、別の神に仕えました。黄金の子牛を神として崇めたのです。これは出エジプト32章に書かれています。また、荒れ野の40年間の後も何度もイスラエルの民は別の神々を信奉しました。そういう意味でイスラエルの民は神の試みに耐えることが出来なかったのです。しかし、主イエスは悪魔からの誘惑に打ち勝ち、神のテストに合格したのです。アダムとエバの罪を贖い、イスラエルの民が失敗した神からの訓練を耐えたのです。しかも、主イエスはこの時何か特別な力を使ったわけではありません。奇跡を行ったわけではないのです。この時は人の身でありながら、御言葉に頼ることによってこの悪魔の誘惑に打ち勝ったのです。これが重要です。今までの人生で私たちは多かれ、少なかれ、様々な誘惑、試みを受けて来ました。このコロナの問題など今でも受けていますし、これから私たちの人生が終わるまで受け続けていくでしょう。しかし、憶えておいてください。主イエスは人の身でありながら、御言葉に頼ることによって誘惑を退けたことを、そして神からのテストに合格したことを。私たちにも出来るはずです。

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