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「隣人」

2023年8月6日 聖霊降臨節第11主日

説教題:「隣人」

聖書 : 旧約聖書 出エジプト記 22章20節-26節(131㌻)

   新約聖書 ローマの信徒への手紙 12章9節-21節(292㌻)​

説教者:伊豆 聖牧師


 私達は教会という共同体の中で生きています。主イエスを信じる信仰を持った共同体ですね。それはとても大切なことではあるのですが、それと同じくらい大切な存在が地域の共同体ではないかと思うのです。いわゆる近所付き合いというものです。教会という共同体の中で人間関係がギクシャクしますと色々な問題が起こってきます。例えばパウロは様々な手紙を教会に書き送っていますが、Iコリントの信徒への手紙でまず指摘した問題は分派というものです。コリントの教会の中である人々はケファ(ペトロ)を支持し、別のある人々はアポロにつくと表明し、さらに別の人々はキリストにつくという有様でした。とかく人が集まる所は共同体となりますが、また人が集まる所には問題、特に人間関係の問題が生じるものです。それは教会という共同体でも同じことです。ましてや教会ではないこの地域の共同体ではなおのことです。ですが、生じるものであることを認めることと、それをそのままにして良しとすることは違うことです。しばしば、私達はこの2つを混同し、生じるものだからしょうがないとしてしまいます。パウロがコリントの教会に手紙を送った理由もそのような状態を改善しようとして送ったのだということを忘れてはいけません。


 さて本日の最初の聖書箇所は出エジプト記で主がモーセを通してイスラエルの民に与えた律法の一部です。もう何度か皆さんに説教を通してお話しましたが、エジプトで奴隷の状態であったイスラエルの民を主はモーセを民の指導者としてお立てになられ、彼らをエジプトから救い出されたということです。そして、主はイスラエルの民が守るべき事としてモーセを通して律法として彼らにお与えになられました。

今回はその律法の一部で小見出しには人道的律法と書かれています。

「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。」

(出エジプト記22章20節)

主はこのように言っているのです。

「あなた達はエジプトの国で寄留者という弱い立場にいた。そして奴隷として虐待され、圧迫されてきた。であるならば、その辛さが分かっているはずだ。であるならば、他の人にその辛さを味わわせることなど出来ないはずだ。だから自分たちの国の寄留者に対して虐待や圧迫はするな。」という主からのご命令です。

確かにそのように筋は通っています。しかし、歴史的にみれば、圧迫や虐待されてきた側の人間がいざ権力を持つと逆に圧迫する側、虐待する側にまわることはよくあることです。新約聖書のマタイによる福音書18章21節から35節には王に借金があり、返さなかった家来の話が出てきますね。彼は必死に王に許しを請い、王は借金を免除してあげた。にもかかわらず、この家来はお金を貸した仲間に返済を迫り、この仲間をお金を返すまで牢にいれた。その事を王に報告し、激怒した王はこの家来をお金を返すまで牢にいれた。これは私達が立場が変われば態度も変わるということの現れです。そして、出エジプトで主が命じたのも私達のこの性質を理解していたからです。つまり、寄留者として苦難を通らされたにも関わらず、いざ自分が寄留者でなくなったら、容易に寄留者を虐待してしまう事が起こりうるということです。これが罪です。これは私達にも言えることですね。私達は寄留者になったことはありませんから、イスラエルの民のように寄留者になった苦難を経験したことはありません。ですが、寄留者の苦難を経験したことがないから寄留者を苦しめてよいということではないのです。ここで主が仰っているのは弱者を苦しめることは不当であり、神の民としてはそういうことをしてはいけないということです。しかし、私達は罪の力によってそういうことをしてしまう傾向があるということです。


 21節の「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。」というのもまた社会的弱者を苦しめてはならないということです。そして続く23節にはもしそのような人々を苦しめた時の罰が述べられています。

「あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。」自分の妻、自分の子供が同じように苦しめられる立場におかれるということですね。24節から26節にかけては借金についてですね。と言っても、これは自分がお金があり、相手が貧しい時にお金を貸す時の事について書かれています。相手が貧しいということですのでこれも社会的弱者についてです。

「高利貸しのように利息を取ってはならない。質にとった上着は日没までに返さなければならない。」と24節と25節にありますね。

社会的弱者に対する哀れみを主は私達に要求しているのです。


 ですが、なぜ主はイスラエルの民にこのような事を要求しているのでしょうか?それは主が正しい方であり、聖であり、憐れみ深いからです。そしてイスラエルの民は主が選ばれた民であり、主に倣うようになってほしいという主の願いがあるのです。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」(申命記7章6節)

「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。」(レビ記11章44節)

ですが、先程から申し上げてきたように、主が本日の聖書箇所で社会的弱者を憐れみなさい、保護しなさいとイスラエルの民に命じているのは彼らの中に社会的弱者を虐待する傾向があるからです。逆説的に言えばですね。そしてそれは私達にも引き継がれているのです。


 というと、いや私達はそんな酷い人間じゃないですよ。憐れみ深い人、善良な人は世の中に沢山いますし、牧師先生、ちょっと言いすぎですとお叱りを受けてしまうかもしれません。確かに善良な人、憐れみ深い人々、ボランティア活動を一生懸命している人々は多くいらっしゃいます。ですが、私達の心の奥底には罪があり、それが様々な形でもって現れてくるのです。今日の箇所で言えば、社会的弱者に対する迫害などですね。この出エジプト記が書かれた時代に比べれば、私達の社会での人権に対する考え方は発達したと言ってもいいでしょう。しかし、私達の社会ではいまだに社会的弱者に対する差別がありますし、虐待も存在します。例えば最近は聞きませんが、ホームレスの人々に対して暴力を振るい、彼らを利用する貧困ビジネスというものもありました。お年寄りを狙った詐欺などもあります。いくら一般の人権に対する考え方が向上しようが、法律が発達しようが、社会的弱者を虐待する、圧迫する、食い物にすることが行われているのです。 


 本日の第2の聖書箇所ローマの信徒への手紙12章9節から21節にかけては私達キリスト者の理想的な生活が書かれています。

小見出しにも「キリスト教的生活の規範」と書かれています。

注目する所は18節です。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」

ここでパウロはキリスト者だけの交わりと言ってないのです。キリスト者以外の人とも平和に交わりなさいと言っているのです。もちろんすべての人と言うと、無理かもしれません。ですから「できれば」と言っているのかもしれません。ですが、まずは地域のキリスト者以外の人々と平和に交わりなさいと言っているのではないでしょうか?私達は地域に住んでいます。ですので、キリスト者以外のその地域に住んでいる人と付き合わないとするととんでもない事になってしまうのです。その地域の平和が私達の平和でもあるのです。エレミヤ書29章7節にはこのように書かれています。「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町のために主に祈りなさい。その町の平安あってこそ、あなたたちの平和があるのだから。」彼らの都は滅ぼされ、バビロンに捕囚として連れてこられました。数々の屈辱を受けたことでしょう。心情的にいえば、バビロンなんて滅んでしまえと思ったことでしょう。ですが、主は言われたのです。この町の平安あってこそ、あなたがたの平安もたもたれるのだと。

 私達は今私達が住んでいる地域がバビロンのような町ではないことを知っています。私達はここに捕囚として連れてこられてはいません。しかし、同時に私達はこの住んでいる地域が神の御心に適った町でもないことも知っています。だからこそ、私達はやがて来る主イエスとやがて受ける御国を待ち望んでいるのです。ですが、それと同時に私達はいま住んでいるこの地域の人々の平和と平安を祈る必要があるのです。

律法で2番目に大切な戒めは「隣人を自分のように愛しなさい。」です。もし、これが出来ていれば、本日の最初の聖書箇所に書かれている律法も守ることが出来るはずです。ですが、出来ない。それは私達の中にある罪の力によるものです。これを聖霊の力によって滅ぼしてもらわなければならないのです。

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