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「あきらめないこと」

2021年1月31日 降誕節第6主日礼拝

説教題:「あきらめないこと」

聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 18章1-8節(143-144㌻)    

説教者:伊豆 聖牧師


 人間、諦めが肝心という言葉があります。ある人が、スポーツ、学業、そして仕事等で良い成績を収めようと努力しますが、自分の思っていた成績を収めることができず、またその人の周りの人々の期待にも応えられなかったとします。その人は何年か努力し続けますが、やはり、その成績は芳しくなかったとします。そういう時、その人が今まで行ってきた努力を別の方向に向けることも一つの考え方かも知れません。その方が、その人がこれから先の人生で時間を有意義に使うことが出来るかも知れません。しかし、聖書には、あきらめないで、神の祝福を得た人々が多く描かれています。あまり良い言葉ではないのですが、彼らはあきらめが悪く、しつこく神に自分たちの願いを求め続け、神は彼らの願いを叶えました。例えば、旧約聖書の創世記32章23節から33節でヤコブは神と思われる者と格闘しますが、その者がヤコブに去らせてほしいと言った時、ヤコブは祝福するまで去らせないと言い、神からの祝福を頂きました。また、新約聖書のマタイによる福音書15章21節から28節ではこのような話が書かれています。異邦人であるカナン人の女性が悪霊に取り憑かれた彼女の娘を癒してほしいと何度も主イエスに頼みます。しかし、主イエスはこの女性がユダヤ人ではなく、カナン人であるので、最初、彼女の申し出を断ります。主イエスは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(マタイによる福音書15:26)と言うほどでした。しかし、この女性は「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(マタイによる福音書15:27)と主イエスに答えられ、主イエスはその女性の答えに心を動かされ、彼女の娘を癒やされました。

 本日の聖書箇所もまたこのようなあきらめない人物が神からの祝福を得る話です。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。」とルカによる福音書18章2節から3節にあります。ここでの登場人物は三人います。「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」、「やもめ」、そして「相手」です。

 「神を畏れず、人を人とも思わない裁判官」とはどういう人物でしょうか?まず、この人物とは逆の人物の事を考えてみましょう。「神を畏れる」人物とは神の御心を思い、神の御心に従って正しい事をなそうという人物だと考えます。そして、「人を人と思う」人物とは他者を人格を持った人間だと認め、尊敬を持って接する人物だと思います。主イエスがある律法学者に「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」(マルコによる福音書12:28)と問われた時、主イエスは申命記6章5節を引用して、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とお答えになりました。(マルコによる福音書12:30)さらに、主イエスは第二の掟としてレビ記19章18節を引用して、「隣人を自分のように愛しなさい。」と答えられました。(マルコによる福音書12:31節です)。主イエスはこの二つにまさる掟はないとまで言われたのです。これら二つの掟は私たちキリスト者にとって重要な守るべき物なのですが、この裁判官はこの二つの掟を守らず、真逆の人物であると言えます。彼の行動の基準、彼の仕事の判断基準は神の御心でもなく、他者への尊敬や憐れみでもなく、自分だということです。そんな人物が裁判官という職につき、彼は権力と権威を持っていました。

 さて、次の登場人物の「やもめ」です。彼女は夫を亡くしました。そして当時の社会状況では女性は現代のように権利を保証されてはいませんので、この女性は生活していくのが難しかったと思われます。そして、彼女は誰かとなにか問題があったようです。その相手は誰なのか、問題は何なのか分かりませんが、とにかく、彼女は裁判官のところに来て、「相手を裁いて、わたしを守ってください」とこの裁判官に求めていたという事です。この女性はおそらく経済状況は貧しく、権力も権威もない哀れな状態であったと思います。一方、この裁判官は自己中心で権力と権威を持っていました。いわば、真逆な二人であったといえます。

 そして、4節に書かれているように裁判官はこの女性が来てもしばらくは取り合いませんでした。寡婦を保護する律法があるのですが、彼は神を畏れていませんから、律法も関係ありませんし、神の御心も関係ありません。また、彼は人を人とも思っていませんでしたから、他人に敬意を持って接するもしくは他人を哀れむというようなこともしなかったと思います。ましてや、この女性は権力、権威もなければ、金銭もなかったと考えられますので、裁判官がこの女性のために何かをしてあげる理由はないのです。彼がこの女性をしばらく取り合わなかったのは当然と言えば、当然なのです。

 しかし、後でこの裁判官は自分の考えを変え、彼女のために裁判をしようと決めます。その理由は彼女が「うるさくてかなわないから」そして、彼女が「ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」とこの裁判官が考えたからです。語弊があるかもしれませんが、面白い状況です。この女性は夫を亡くし、経済的にも困窮し、権力や権威を持っていません。社会の下層に属している弱者です。一方、裁判官が権威や権力を持ち、経済的にもある程度恵まれ、社会の上層に属している強者です。社会的弱者であるこの女性が社会的強者である裁判官を悩ましているというか打ち負かしている構図が見えてくるのです。特に「ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」という裁判官の表現には彼のこの女性に対する「恐れ」すら感じさせます。

 ここで大事なことは何でしょうか?何がこの自己中心で傲慢な裁判官の考えを変えたのでしょうか?裁判官に彼女に対して「恐れ」を抱かせたのは何でしょうか?それは彼女の執拗な訴えでした。彼女は経済的に豊かであったわけでもなく、権力や権威を持っていたわけでもありませんでした。彼女が持っていたのはあきらめないことでした。しつこく訴えることでした。それがこのような裁判官ですら動かしたのです。そして、主イエスはこの様な不正な裁判官ですら、あきらめないで求め続ければ裁いてくれるのに、不正でない神が速やかに裁きを行わないことがあろうかと言います。(ルカによる福音書18:6-7)

 私達の周りの状況は順風満帆というわけではありません。問題が数多くあります。そして、私たちはそういう状況になると神に対する不満を募らせます。神は本当にいるのだろうか、もしいるのなら何をしているのだろうか、早く私たちを助けてくださいという思いを私たちは持ってしまいます。そして、しまいには神に対する不信感を持ってしまうかも知れません。例えば、この新型コロナウィルスです。緊急事態宣言、感染者数の増加、病床数の減少、会食の制限、不要不急の外出の自粛、ソーシャルディスタンス、マスクの着用、様々な行事の中止などを聞くと気が滅入ってきます。終息は未だ見えない状況です。しかし、希望もあります。ワクチンや治療薬が普及すれば状況は良くなると思います。もちろん、それまでにその事に関する様々な問題があることは承知していますが。そして私たちキリスト者として肝心なことはあきらめずに神に訴えること、訴え続けることではないでしょうか?聖書には、感情的訴えを神に投げかけている箇所が多くあります。詩篇などがそうです。私はこんな感情的な事を神に訴えてもいいのか、畏れ多いのではないかと思いつつもこのような訴えを受け入れ、応えられてきた神に感謝しております。あきらめず神に訴え続けることをやめてはいけません。それこそが信仰です。カナンの女性のあきらめずにへりくだって主イエスに訴え続けたことを思い出してください。あのとき、主イエスはこの女性にこう言われたのです。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(マタイによる福音書15:28)そして、本日の聖書箇所のこの女性が裁判官の考えを変えさせ、この女性のために裁判をするまでに至った事を忘れないでください。神は私たちにそういった信仰を求めているのではないでしょうか。

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