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「いけにえと憐れみ」

2020年9月13日 9月第2主日礼拝 

説教題:「いけにえと憐れみ」

聖書:新約聖書 マタイによる福音書  9章9-13節(15㌻)       

説教者:伊豆 聖牧師


聖書では主イェスが徴税人や罪人と交流する場面をよく見かけます。例えば、ルカによる福音書19章1節から10節には主イェスと徴税人ザアカイとの交流する場面が出てきます。主イェスがいちじく桑の木に登っていたザアカイに声をかけ、ザアカイの家に泊まりたいと言うのです。ザアカイは喜んで主イェスを迎え入れました。本日の聖書箇所マタイによる福音書9章9節でも主イェスは徴税人マタイに「わたしに従いなさい」と声をかけます。

そして、ファリサイ派の人々は主イェスと彼の弟子たちが徴税人マタイの家に入り、マタイや後からやって来た罪人や徴税人たちと食事をするのを見て、非難し、弟子たちにこう言うのです。  

「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」

(マタイによる福音書9:11)

 この徴税人や罪人と食事をするということがいかに当時のユダヤ人にとって避けるべきことであるかは私達、現代を生きる日本人にとって解りづらいかもしれません。当時ユダヤ人たちが住んでいる地域はローマ帝国に支配されていました。そして、ローマ帝国は地元のユダヤ人の中から徴税人として人を選び、徴税させました。ですので、徴税人として選ばれ、ローマ帝国の代わりに徴税をする徴税人は裕福ではありましたが、同胞のユダヤ人たちから嫌われる存在でした。また、ユダヤ人たちは罪やけがれを忌み嫌いました。旧約聖書のレビ記4章、5章などにも書かれているのですが、細かく規定されていました。ファリサイ派の人々は律法を重んじ、神から与えられた律法をさらに細かく規定していましたので、彼らは罪人と食事をとった主イェスと彼の弟子たちを非難したのです。

しかし、主イェスはファリサイ派の人々の非難になんと答えたでしょうか?

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9:12-13)

ここに福音の本質があります。少し前の話なのですが、あるキリスト者の方がお子さん達を捨てようとしたということをお話されました。彼女はお子さん達を捨てませんでしたし、もうすでに、彼女のお子さん達は成人なさっておりますが、いまでもそのときの記憶と申しますかその罪がよみがえってくると言われました。そして、彼女は『なんで主イェスはこんな私から離れないのだろう。』と言っておられました。「こんな私は救われるに値しない存在だ」というのは悪魔のささやきだと思うのです。むしろ、「こんな私だからこそ、主イェスがそばにおられる。」のだと思うのです。そして、彼女は過去の事を悔いている。何人かのキリスト者は救いを安易に考え、何をしても許されると思っているのですが、彼女は心から悔いている。ですので、彼女の罪は許されていると確信しています。詩篇51章19節に「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を  神よ、あなたは侮られません。」と書かれているからです。マタイは9節で主イェスの「わたしに従いなさい」という言葉を受け入れ、主イェスに従い、主イェスを彼の家に迎え入れ、食事を一緒にとりました。このことが彼の悔い改めではないでしょうか?そして主イェスによる救いが与えられるのです。ザアカイもまた主イェスを迎え入れ、主にこう言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカによる福音書19:8)このザアカイの言葉に対する主イェスの言葉は「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカによる福音書19:9-10)ザアカイの悔い改めと救いです。主イェスは憐れみを持って失われた者たちを今日も明日も求めています。彼が求めているのはいけにえではありません。私達がなすべきことは徴税人マタイ、ザアカイ、そして私が先程話したキリスト者のような悔い改めの心をもつことではないでしょうか?なぜなら、主イェスは罪人のために十字架の上でなくなられたのですから。

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