「いやすキリスト」
2022年2月20日 降誕節第9主日
説教題:「いやすキリスト」
聖書 : 新約聖書 マルコによる福音書 2章1-12節(63㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
主イエスが病人や悪霊に憑かれた人をおいやしになる場面は聖書によく出てきます。本日の聖書箇所の前にも主イエスは弟子たちを得た後、悪霊に憑かれた男をおいやしになったことを皮切りに様々な病人や悪霊に憑かれた人々をおいやしになられました。この事は同じマルコによる福音書の前章21節から45節に書かれています。さて、今回も主イエスが病人をおいやしになる話なのですが、主イエスがカファルナウムという場所のある家で御言葉を語っているところから物語が始まります。主イエスがご滞在なされた家には大勢の人々が集まってきたということです。「大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。」というほどでした。主イエスが行かれる所は大勢の人が集まり、人だかりが出来ます。それはやはり、主イエスが語る御言葉と業によるものだと思うのです。この前章の40節から45節でも主イエスは重い皮膚病を患っていた人をいやし、そのいやされた人がそのことを言い広めたので、大勢の人々が集まってきたと書かれています。そして、ルカによる福音書5章1節にも大勢の人々が主イエスの語られる神の言葉を聞こうとして主イエスの所に集まってきたということが書かれています。神の業を行い、神の言葉を語られる主イエスには人が集まるのは当然なのです。
この日も主イエスが大勢の前で御言葉を語っていたところ、四人の男が中風の人を運んできました。しかし、群衆に阻まれてイエスの所に連れて行くことが出来ませんでした。彼らはどうしたでしょうか?
その家の屋根を引きはがして、穴をあけ、その中風の人が寝ている床をつり降ろしました。これは常識的にいえば、とんでもないことです。他人の家の屋根をひきはがすなんて、いわば犯罪ですし、その家の持ち主にしてみれば、彼らは自分の所有物を破壊する犯罪者達です。非難されるべきことを彼らはしたのです。
しかし、主イエスは彼らに対して好意的でした。5節にこのように書かれているからです。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」
確かに彼らが行った行為は犯罪ですし、後でその家の家主に対して謝罪や弁償をしたかもしれません。しかし、もし彼らがそうしなければ、中風の人はいやされる機会を失ったことでしょう。そして、「イエスはその人たちの信仰を見て、」という言葉が大切です。
彼らが中風の人をここまで運び、家の屋根をはがし、イエスの所につりさげたことに主イエスは彼らの信仰を見たのです。彼らの必死さ、そして、主イエスは必ずいやしてくれるという彼らの確信を見たのです。もちろん、これは実際にいやされる人の信仰ではありません。この中風の人を運んできた人たちの信仰です。しかし、それでも主イエスは彼らの信仰を見ていやすのです。ローマの百人隊長の信仰もそうでした。彼は自分ではなく、僕のために主イエスにいやしていただくよう願い出ました。主イエスが、その時「行って、いやしてあげよう」と言われた時、彼は「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と自分をへりくだらせつつ、確信をもって言いました。カナンの女性も自分ではなく、悪霊に憑かれた自分の娘をいやしてほしいと幾度も主イエスに断られたにも関わらず、頼みました。最後には「子供たちのパンをとって子犬に与えるのは良くない。」と言われたのにもめげず、彼女は「子犬でも食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と言いました。そして主イエスは彼女の信仰をほめ、彼女の娘をいやしました。彼らに共通したものは何だったのでしょうか?それは先程言ったように、必死さと主イエスは必ずいやすことがお出来になるという確信です。これこそが、信仰です。そして、本日の聖書箇所に出てくるこの中風の人を運んできた四人の男もまたこの必死さと確信を持っていたのです。だからこそ、屋根をひきはがし、床ごと中風の人を主イエスの前につりさげるという大胆な行動をしたのです。信仰とは時として大胆で時に、一見すると非難されるべきものです。しかし、私達に彼らのような強い信仰があるでしょうか?もちろん、私は何でもかんでも大胆なことをしなさいと言っているのではないのです。しかし、私達は毎日の生活の中で信仰を神に試されているのではないでしょうか?そして私達の人生の中で大胆な行動をとって信仰を示さなければならないことが来るかもしれません。その時私達はこの四人の男たちのように信仰を示すことが出来るでしょうか?神の御心にかなって信仰を示すことが出来るよう神に祈りたいと思います。
この話はさらに続きます。主イエスが「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた時、数人の律法学者達が主イエスの発言は神を冒涜していると考えたのです。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と7節に書かれています。
彼らがこのように考えるのは当然なのです。罪を赦すことが出来るのは神のみであって、神が罪を赦す手続きをする、もしくは懇願することのみを人がすることが出来るという考え方をユダヤ社会では持っていました。例えば、律法によって、祭司は人の罪の贖いのため動物を犠牲にしました。また預言者は国や人々の罪の贖いの懇願を神にしたり、神がすでに罪を赦したということを伝えたりもしました。しかし、あくまでも罪を赦すのは神のみということでした。ですので、主イエスの言葉は神への冒涜であるということは当時のイスラエル社会では常識であったということでしょう。特に彼らは律法学者達、つまり知識人達でしたのでこのように考えるのは当然であったことでしょう。
しかし、主イエスはそんな律法学者達が考えていることをご自分の霊力で見抜いて、彼らにこう言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」
主イエスはそんな彼らの考え方を非難しました。そして、主イエスは人の子、つまり主イエスご自身が地上で罪を赦す権威があると宣言します。そして、中風の人に言われました。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」事実その通りになった。つまり、主イエスはこの業を行うことによって、主イエスに罪を赦す権威があることを証明したのです。もし、罪を赦す権威がなかったのなら、この業は行われなかったでしょう。
そして、中風の人を運んできた人たちとこの律法学者たちの心の持ちようは対照的です。一方は主イエスに対する信仰を示し、他方は主イエスが神を冒涜していると心の中で非難している。この非難している律法学者たちはこれまでの自分達のルールの中で生きているのです。しかし、主イエスの出現はこれまでのルールや考え方が新たにされることなのです。彼らは主イエスが業を行なったので認めざるを得ないのですが、認めたくなかったのです。ですから、結局自分達のルールで認めないので、主イエスを十字架にかけました。私達はどのような生き方をするか選ばなければならないのです。
この中風の人を運んできた信仰のある人達のようになるのか、それともこの律法学者たちのように自分達のルールに従い、神の御心から離れてしまうのかを。聖霊に信仰を与えていただくよう祈ろうではありませんか。
Comments