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「いやすキリスト」

2024年2月18日 受難節第1主日 

説教題:「いやすキリスト」

聖書 : ヨハネによる福音書 5章1節-18節(171㌻)​​

説教者:伊豆 聖牧師


 もう何度か週報で書いているのですが、先週14日の水曜日は灰の水曜日、アッシュウェンズディと呼ばれています。アッシュは灰でウェンズディは水曜日です。この日から受難節が始まります。これも何度か言っているのですが、灰をかぶることは悔い改めたり、屈辱を受けていることを意味しています。例えばエステル記4章1節にはこう書かれています。「モルデカイは事の一部始終を知ると、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、都の中に出て行き、苦悩に満ちた叫び声をあげた。」      

クセルクセス王という人物がいたのですが、この王に特に取り立てられた家臣でハマンという大臣がいました。そして王の家臣は誰でもこのハマンの前にひざまずいて敬礼するよう王から命令されていたのですが、ユダヤ人であるモルデカイはそれをしませんでした。それに腹を立てたハマンはモルデカイ本人を罰するだけではなく、ユダヤ人全員を抹殺するよう王を焚き付け、ユダヤ人を抹殺する勅令が発布されてしまいました。それを受けてのこのモルデカイの行動なのです。「衣服を破ること、粗布をまとうこと」もまた「灰をかぶること」と同様に屈辱を受けていることを意味します。ですから灰の水曜日がキリストのご受難の始まり、受難節の始まりなのです。この受難節は3月31日(日)イースターの前日3月30日(土)まで続きます。またこの受難節は四旬節とも呼ばれています。それは日曜日を除くとこの期間が40日間だからです。ですからこの期間は主のお苦しみを想起するのです。また教会の講壇の前に掛けられている祭壇布も紫に変わりました。これも受難節のためです。

 さて本日の聖書箇所です。先週の説教でも少しお話したのですが、お祭りがあって主イエスがエルサレムに上られたと1節に書かれています。皆さんお祭りと聞くと何を思い浮かべるでしょうか?キリスト教の牧師である私がこのような事をいうのもいかがなものかと思うのですが、お神輿、神社の縁日、盆踊り、花火大会といったものだと思うのです。そして共通しているのはそのお祭りに参加している人は楽しんでいるということです。喜んでいるのです。2節を見てみますとそのエルサレムのある場所に焦点が当てられます。羊の門です。この羊の門とは律法を遵守する宗教、つまりユダヤ教の羊(信者)囲いの門を象徴していると言われています。その傍らにベトザタという池があったということですが、これは「あわれみ」という意味です。回廊は避難所で5という数字は「責任」を表していると言われています。つまりこの場所は律法を遵守する宗教の避難所で憐れみを必要とされている人々がいることを象徴している。事実3節「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」という言葉がそれを具体的に説明しています。

 ここまで見てきてああそうなんだと普通には思えないんですね。私は最初お祭りの事を言いました。楽しい事、喜びを言いました。皆さん楽しんでいる。実際はそうではないんです。お祭りを楽しんでいる人々の傍らで苦しんでいる人々がいるんです。この事を忘れてはいけないんです。この事は現代でも言えます。ウクライナではいまだに戦争が続いてます。パレスチナとイスラエルの戦争もしかりです。また能登半島地震で被害に遭われた方々もまだ普通の生活に戻っているわけではありませんね。彼らのために祈ります。

 さて聖書に戻りますと、このような悲惨な状態にある人々にも全く希望がないわけではないということです。

 皆さんが見ている新共同訳聖書にはないのですが、新約聖書の回復訳という聖書には4節があります。その4節を見てみますと、御使いがときどき下りてきて、池の水をかき回す時に水に入ると病気が癒やされるということです。少しとぶのですが、7節を見てみますとある病人が「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」と言っています。その前の6節との関連をみても7節は何が何だかわかりません。ですから私は4節が必要だと考えています。4節があれば7節でこの病人が言っていることがわかるからです。

 さて4節ではこのようなひどい状態の場所にも希望がある事を示していますね。しかし、それはこの御使いの気まぐれというべきものです。次の5節で三十八年間病気で苦しんでいる人がいるが、7節でこの人はこの御使いが与える恩恵に預かることが出来なかったと述べています。水が動く時その人を水の中に入れてくれる人がいなかったと述べています。ここでまずわかることはこの人は足が不自由だったということです。次にわかることは周りの人間の冷酷さということです。自分たちが助かればそれでいいのだということです。この話の中では3つのグループの人々がいると考えられます。最初のグループは祭りに参加する健康な人々、次にこの池の側の回廊にいる病気ではあるが、自力で池に入ることが出来る人々、そして病気で自力で池に入ることが出来ず見捨てられた人々です。彼らはただ単に病気そのもので苦しんでいるだけでなく、社会的にも苦しんでいたのだと考えられます。なぜなら、病気をするということは汚れている、罪を犯しているとみなされるからです。

 このような人に主はお声を掛けられたのです。あえてお声を掛けられたのです。「もう長い間病気であるのを知って」と6節に書かれていますね。そして8節で主イエスはこの人に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われ、この人はそのようにしました。いままでは(人によって)床ごと担がれていたのに、逆に床を担いだのです。律法に縛られ、その御使いの気まぐれともいえる奇跡で人々が癒やされてるような所でその人は打ち捨てられていたのです。しかし主イエスが来られ、その人を癒やされたのです。喜ぶべきことではないでしょうか?

 ですが、ユダヤ人たちの反応は違っていました。

「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」

(ヨハネによる福音書5章10節)

 彼らは病気で苦しんでいる人々に手を差し伸べることなく、むしろ汚れているとして排除してきました。そしておそらくそういった中でこの祭りを楽しんでいたことでしょう。そしてこのような人々が病気を癒やされた人に対してこのように言うというのは主の前にあって正しいかどうか。

 ですが、彼らにとっては律法がすべてであったのです。汚れているから遠ざける、安息日を守る、何が悪いのだということです。むしろ安息日を破っている主イエスこそが悪いのだという理屈です。だからこそ主イエスを迫害し、主イエスを殺そうとし始めたのです。主は捨てられた者を探し求め、癒やされました。ユダヤ人たちは病気の人達を隔離し、打ち捨て、主イエスを迫害し、殺そうとし始めました。果たしてどちらが神が喜ばれるでしょうか?私達に正しいものの判断を与えていただけるよう主に祈りたいと思います。

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