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「お言葉ですから」

2022年1月9日 降誕節第3主日

説教題:「お言葉ですから」

聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 5章1-11節(109㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 みなさん、あけましておめでとうございます。本日はこの教会での最初の主日礼拝です。まさに、心を新たにして主を礼拝しましょう。私達、キリスト者にとって「心を新たにする」と聞いて思い浮かべる事とは何でしょうか?多分多くの方が思い浮かべるのは自分がキリスト者になると決めたときの事、具体的にいうと「洗礼」を受けたことではないでしょうか?もちろん、全員が全員洗礼を受けた時に、心を新たにして、いや、神様に心を新たにされて、確信を持って主イエス・キリストを救い主として受け入れたわけではなかったかもしれません。ダマスコの途上で回心したサウロのような劇的な体験をしたわけではなかったかもしれません。しかし、そのような状態であっても、徐々にではあっても、神によって日々心を新たにさせられ、変えられていると確信を持って信仰生活を歩んでいこうではありませんか。


 ペトロは信仰に入った時、主イエスによって劇的に変えられた人物の一人です。主イエスとペトロとの出会いはゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖の湖畔)で主イエスがペトロの持ち船に乗り、岸から少し漕ぎ出すよう頼まれたところから始まります。なぜ、そのように主イエスがペトロに頼まれたかというと、主イエスが発せられる神の言葉を聞こうと群衆が彼の周りに押し寄せてきたからです。主イエスは船上で群衆に教え始められました。主イエスは教え終わってから、ペトロにこう告げました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」ルカによる福音書5章4節です。これは漁師ペトロにとって極めて理不尽なことでした。次の5節にも書いてあるとおり、漁師ペトロは彼の仲間たちと共に一晩中、漁をしたのに魚一匹とれなかったからです。言うまでもなく、彼らは漁師です。魚をとることにかけてはプロフェッショナルな人達です。その人達が一晩中漁をしても魚をとることが出来なかったのです。そして、この魚をとることには素人な主イエスが彼ら魚をとることのプロの漁師に「沖に出て漁をしなさい」と言われるのです。普通の漁師であれば、主イエスを馬鹿にするか、主イエスに対して怒り、主イエスの命令を無視して岸に戻って来てしまったことでしょう。


 しかし、ペトロは違っていました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」先程申し上げたように、5節でペトロは魚がとれなかったと否定的な事を言っています。しかし、それは5節の前半部分です。重要なことは5節の後半部分です。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」ペトロは主イエスの言葉に従ったのです。漁のプロのペトロが消極的ではありますが漁の素人の主イエスのご意見に従ったのです。何故でしょうか?

理由の一つはペトロがこの時点で主イエスに対してある程度の尊敬の念を抱いていたことが考えられます。本日の聖書箇所の第1節にはこう書かれています。「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた。」また、第3節にはこのように書かれています。「そして、腰を降ろして舟から群衆に教え始められた。」

ただの一般人の周りに群衆は集まりません。ペトロは主イエスの 周りに群衆が押し寄せてきて、その群衆に教えられた主イエスを確実に見たのです。ペトロは主イエスをどのように思ったのでしょうか?この人は只者(ただもの)ではないと思ったに違いありません。敬意を払うべき人物であると考えたに違いありません。5節でペトロは主イエスを何と呼んでいますか?「先生」です。この呼び方一つを取ってみても、ペトロが主イエスを尊敬に値する人物として敬っていることがわかります。


 しかし、この5節にはペトロの葛藤も見えるのです。先程も言ったように、彼は魚を捕らえるプロの漁師です。そのプロの漁師が一晩中漁をしても魚一匹とれなかったという現実を目の当たりにしたのに、果たして尊敬する先生とはいえ、素人の主イエスの言うことを聞き、網を降ろして漁をすべきかどうかという葛藤です。もちろん、ペトロは主イエスの言うことを聞き、網を降ろしました。このような葛藤は私達の日々の生活でも起こり得ることです。

例えば、なかなか、神の御心はわからないのですが、神の御心が私に示されたとします。しかし、私は私の決断で物事を判断したいと考え、また私の考えも世の中の常識に照らし合わせて正しいとします。その世の中的にも、常識的にも正しい私の考えと神の示された事が違っていたとします。果たして私は私の意見に従うべきでしょうか?それとも神の示された事に従うべきでしょうか?模範的なキリスト者としての解答は神に従うべきであるということです。しかし、なかなかそれは出来ないのではないでしょうか?

まず、自分のプライドがあります。私の人生は私のものだという考え方です。そして自分の意見は常に正しいという考え方です。さらに、他の人達もそうしている、常識的にみても正しいからという考え方があります。もっというならば、他人の目を気にするということになるかもしれません。自分自身のプライドや他人からの批判をかなぐりすてなければ、神の御心に従うことは出来ないのです。


 ペトロはこの時点で消極的ではありますが、自分自身の魚をとるプロの漁師であるというプライド、その漁師である自分が一晩中漁をしたが、魚一匹とれなかったという現実をかなぐり捨て、主イエスの言葉に従いました。ここが大切なところです。私達はペトロのように自分のプライドを捨て、目の前の現実を捨て、主イエスの御言葉に従うことができるでしょうか?

 ペトロは主イエスの御言葉に従ったところ、何が起こりましたが?彼とその漁師仲間たちは大量の魚をとることが出来ました。奇跡が起こりました。その後ペトロはその奇跡を目の当たりにし、主イエスに恐れを抱きました。自分自身の罪深さを自覚して、主イエスに自分から離れるよう言いましたが、主イエスは逆にペトロに「人間をとる漁師になる」と言われ、ペトロと彼らはすべてを捨てて主イエスに従ったとあります。

 奇跡がなされ、罪の自覚を覚え、悔い改め、そしてすべてを投げ捨てて主イエスに従うというペトロの一連の主イエスの弟子になった経緯を見てきました。


 みなさんはペトロのように何か劇的な奇跡を経験してはいないかもしれません。何かこのように順序立ててキリストの弟子になったわけではないかもしれません。しかし、私達は自分のプライドや目の前の現実に押しつぶされないで主イエスの御言葉に従うペトロの姿勢、信仰を持つべきではないでしょうか?このペトロの葛藤は私達が日々試されているのです。

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