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「からし種一粒ほどの信仰」

2021年9月26日 聖霊降臨節第19主日礼拝

説教題:「からし種一粒ほどの信仰」

聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書 17章14-20節(33㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 てんかんで苦しんでいる自分の息子を治してほしいとある人が主イエスに願い出るところからこの物語は始まります。このように、人々が自分自身もしくは自分の近親者の病気や悪霊に憑かれている状態を治してほしいと主イエスに願い出ることは福音書で多く見受けられることで珍しいことではありません。そして、この人物が主イエスの事を「主よ、」と呼び(15節)、主イエスの前にひざまずいた(14節)事から、この人物の必死さ、そしてこの人物の主イエスに対する尊敬の念が見て取れます。しかし、今回のこの主イエスへの癒やしのお願いがいままでと異なる点は、この人物が主イエスの弟子たちに自分の息子を癒やしてほしいとお願いしたが、彼らが失敗してしまったということです。「お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」というこの人物の言葉に彼の失望感が見て取れます。

 ちなみに、この少年を治せなかった主イエスの弟子たちとはペトロ、ヤコブと彼の兄弟ヨハネ以外の弟子たちであろうと思います。なぜなら、この場面の前に主イエスは上の3人を連れて高い山に登り、その山の上でモーセとエリヤと語らったという奇跡が起こり、その後彼らは山から降りて、この人に出会ったからです。

しかし、ここで疑問が出てくるのです。主イエスは弟子たちに悪霊を追い出し、病気を癒やす力をすでに与えていました。(マタイによる福音書10章1節)にもかかわらず、弟子たちが病気を治すことが出来なかったのはなぜでしょうか?


 17節で主イエスは「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」と答えられました。一見すると弟子たちは信仰がないから病気を治すことが出来なかったので、弟子たちの不信仰を咎(とが)めているように見えます。しかし、主イエスはここで弟子たちだけを責めているのではないと思います。主イエスは「信仰のない、よこしまな時代」と言われました。主イエスは彼の弟子たちを「時代」に喩(たと)えたことはありません。むしろ、主イエスはこの時代そのもの、そして彼を取り巻く群衆を信仰のない、よこしまな時代と言ったのかもしれません。もっと言うのであれば、群衆全体がもしかしたら持っていたであろう「たぶんこの人物の息子を治すことは出来ないだろう」というマイナスのエネルギーです。

ここの聖書箇所ではないのですが、同じ事が書かれている箇所がマルコによる福音書9章14節から29節にあります。その箇所で主イエスに頼んだ人物の信仰の足りなさを主イエスに責められる場面があります。彼は主イエスに「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と頼み、主イエスは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と言われ、この人は「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と言いました。彼は主イエスの弟子たちに頼んだが彼らは失敗しました。だからこそ、主イエスに対して「できれば」という、ある意味主イエスを疑うような発言をしてしまったのではないのでしょうか?そして、群衆たちも彼らが失敗したのを見てしまった。だからこそ、そのようなマイナスの感情から、もしかすると主イエスもこの少年を治せないのではないだろうかという主イエスに対しての不信感を持ってしまったのかもしれない。それがマイナスのエネルギーで、主イエスに言わせれば、「信仰のない、よこしまな時代」ということになると思うのです。


 皆さんはラザロの復活の話はご存知ですか?ヨハネによる福音書11章1節から44節にかけて書かれています。その場面で主イエスはラザロが病気であるということを知らされても、癒やしに行きませんでした。そして、ラザロが死んだ後、主イエスは彼の家を訪問するのですが、そこには多くのユダヤ人たちがおり、悲しみに包まれていました。ラザロの姉妹の一人マリアが「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言って、彼女が泣き、そして一緒に来たユダヤ人たちも泣きました。これが不信仰、よこしまな時代のマイナスのエネルギーなのです。主イエスはそれを見て心に憤りを覚え、涙を流されたと書かれています。さらに、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」という者もいたとのことです。そして主イエスはこれを聞いて、再び心に憤りを覚えてと書かれています。やがて、主イエスはラザロの墓の所に行き、ラザロを死から復活させます。しかし、重要なことは主イエスが抱いた憤りと流した涙です。なぜ、彼はこの時、憤り、そして涙したのでしょうか?

 

 それは周りの人々が絶望し、諦め、死の恐怖に打ちのめされていたからです。もちろん、人々のこの反応は当然と言えば当然なのです。しかし、主イエスに取ってみれば自分は復活であり、命であるにもかかわらず、この反応は何だという思いだったのかもしれません。主イエスの周りの人々は不信仰でよこしまな時代そのものであったのだと思います。本日の聖書箇所の群衆にしてもそうだったのでしょう。だからこそ、主イエスは信仰のない、よこしまな群衆に憤り、「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」と言われたのです。そして、その子を治したのです。 


 弟子たちはひそかに主イエスになぜ彼らがその子を治せなかったのかと聞いた時、主イエスは「信仰が薄いからだ。からし種一粒ほどの信仰があれば、山を動かせる」とまで言われました。

ここで重要なことは奇跡を行うには主イエスから権威を授けられるだけでなく、しっかりとした信仰をもっていなければならないということです。しかし、ここで主イエスはからし種粒ほどの信仰さえあれば山も動かせると言いました。からし種とはものすごく小さな物です。主イエスは、よくこのからし種を使った喩えをされました。マタイによる福音書13章31節から32節で主イエスは言われました。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑にまけば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

つまり、からし種というものは小さいとはいえ、成長すれば巨大なものになる。そして、信仰もまた初めは小さく、からし種程度のものであっても、成長すれば天の国に通じるようなものになるということです。しかし、弟子たちはそのからし種ほどの信仰すらないということでしょうか?確かにこの当時の時代は信仰のない、よこしまな時代だったのでしょう。だからこそ、主イエスは人々に地の塩、世の光であれと言われたのです。今は主イエスの時代よりさらに悪い時代ではないでしょうか?確かに昔に比べれば、人権などは尊重されてきました。しかし、未だに人々が虐げられている国々は多くありますし、この日本を含めた先進国でさえ、日々幼児虐待、差別、いじめ、貧困などが存在します。やはり今でも、この世は信仰のない、よこしまな時代なのです。その中でどうしたら、やがては大きくなるからし種粒ほどの信仰を持つことが出来るでしょうか?

やはり、キリストに願うほかないと思うのです。私達は自分たちだけで信仰を持つことが出来ません。自分たちの無力さを知った時こそ、主に願い、祈るのです。

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