「この世の旅人」
2022年11月6日 降誕前第7主日礼拝 召天者記念日
説教題:「この世の旅人」
聖書 : 新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章13節-16節(415㌻)
12章1節-3節(417㌻)
Ⅰペトロの手紙 2章9節-12節(430㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日は召天者記念日です。これは聖徒の日、永眠者記念日とも呼ばれていますが、毎年11月の最初の日曜日です。そして、先に召天した私たちの信仰の先輩たちを記念する日です。そしてプロテスタントでは毎年この日もしくはイースターの日に召天者記念日礼拝をするのが一般的です。ですが、この11月の最初の日曜日を召天者記念日とし、礼拝をするという慣習の元を辿るとカトリック教会の諸聖人の日に行き着きます。英語で言えばオールセインツデイ(All Saints Day)です。そして、それは11月1日です。すべての聖人と殉教者を記念するための日ということです。ですが、先週、お話した宗教改革で、宗教改革者達が聖人への崇拝を廃止したため、プロテスタントではこの聖人を記念するという意味合いがなくなりました。
そして今のような信仰の先輩たちを記念する(崇拝するという意味合いではない。)という召天者記念日として11月1日ではなく、11月の最初の日曜日に礼拝するようになったということです。
さて、浦和教会に遣わされた最初の年の2020年11月29日(日)、礼拝後にある教会員の方の記念会をさせていただきました。その記念会の中でご遺族の方やその教会員の方と親しくしておられた方々が思い出を語られるのを聞き、さらに、教会のあかし集に載っているその方のあかしを聞き、この浦和教会の教会員の召天、キリスト教徒の召天というものに対して意識し始めました。もちろん、この方がいかに素晴らしい信仰を持っていたか、そしていかにご遺族や他の教会員に愛されていたかもこの会を通して気づかせていただきました。感謝です。この年は召天者記念礼拝は行いませんでしたが、次年度2021年は行うことが出来ました。感謝です。そして今年2022年にもこのように行う運びとなりました。
さて、今年の召天者記念礼拝を行う上で二つ重要な事がありました。一つは教会創立記念礼拝です。今年から毎年7月の第3日曜日に行う事とし、実際今年の7月17日(日)に行いました。
その礼拝で大切なことはこの教会の過去を振り返る事でした。
浦和教会の設立からその日までの歴史をまとめさせて頂き、皆さんにお配りしました。アルバムなども皆さんと共に見させていただきました。そして本日の召天者記念礼拝もまた、もうすでに召天された浦和教会の方々のリストやお写真を見て、教会の過去を振り返るものです。ですから、教会創立記念と今回の召天者記念は関係があると思うのです。
もう一つの重要な事と言えば、今年の4月に一人の教会員の方が召天され、召天者のリストに名を連ねたということです。その方はこの教会で何十年間も奉仕をなさって来られました。他の教会員の方々は何十年もこの方とお交わりをなさって来られたのでよくご存知だと思います。個性的な方でしたので、この教会に遣わされてから約2年半という私にもその方との思い出がはっきり刻まれております。そして、その方の告別式、記念会、そして納骨式を執り行わせていただきました。私にとって浦和教会に遣わされてからの、というよりも人生で最初の告別式、記念会、納骨式でありました。ですので、今年の召天者記念礼拝でもその人の事を思いますし、やはり皆さんにとっても今年召天されたということでその方の事を思い浮かべるのではないかと思うのです。もちろん、召天者リストに載っているすべての人々は私たちにとって信仰の先達であり、等しく重要な方々であることは言うまでもありません。
さて、本日の最初の聖書箇所の少し前と少し後の箇所で信仰の先達の事をこのヘブライ人への手紙の著者は述べています。彼らは旧約聖書時代に信仰に生きた人々です。皆さんも馴染みがあるでしょう。アベル、エノク、ノア、アブラハムとその妻サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル等々この著者は名前を挙げています。
彼らがいかに主の前において信仰に生きたかを述べています。
そして、彼らに共通している事として「地上ではよそ者、仮住まいの者」であるということを言っているのです。
「よそ者、仮住まいの者」というと、皆さんはどんな印象を持つでしょうか?あまりいい印象はないと思うのです。フラフラした何か腰が定まらないといった印象を持たれるかと思うのです。
そして立場的に弱いといったものです。例えば皆さんが外国に旅行に行こうとします。そのためにはパスポート、ビザが必要ですし、また、入国審査はその国の人が受けるより厳しいです。また、外国で何か犯罪のようなトラブルに巻き込まれてしまった時もその国の人と同じ様な取り扱いをされるのを期待はできないでしょう。
つまり、私たちは外国では私たちの国で扱われるようには扱われないということを覚悟しなければならないのです。立場的に弱いのです。ですから、主は律法でこうお命じになられたのです。
「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ記19:33-34)
主は立場の弱い人々に対して憐れみをお示しになられています。
このように主はお示しになられていますが、現実問題として「よそ者、仮住まいの者、寄留者」がその国の人々と様々な面で区別されるということはあります。そしてこの地上においては、この世においては区別された状態であっていいのだという趣旨の事をこのヘブライ人の手紙では言っているのです。
一般的に言えば、よそ者、仮住まいの者、寄留者と呼ばれる方々はその国の人に比べると立場的に弱く、安定していない。ですから、より立場的に強くなりたいと思い、安定した生活を求めるなら、その国の国民になるというのが選択肢だと思うのです。事実、アメリカでグリーンカードを得ようとしてそれを得ている人々は多くいます。ですが、この聖書箇所ではこの世でそのような考えを持つな、むしろこの世では立場の弱い寄留者でいなさいとこの著者は述べているのです。
なぜでしょうか?それはこの世の国民となることが神の御心ではないからです。「この世にならってはいけない。この世の友となってはいけない。世の光、地の塩となりなさい。」等々、私たちは御言葉を学んできました。この世の国民になるということはこの世の価値観で生きるということになります。悪い言い方をすれば、この世の奴隷となるのです。もちろん、私はこの世を全く否定するわけではありません。私たちはこの世に生きており、この世の法律は守らなければなりませんし、道徳、価値観を考慮にいれて生活をしなければなりません。しかし、私たちはこの世そのものになってしまってはいけないのです。そして、この世で生きていれば、この世の価値観とキリスト者としての価値観の違いが生じる場面、そして、どちらかを選ばなければならない場面に遭遇することが何度もあるかと思います。そして、この世ではなく、キリスト者の価値観を選ぶことによって不利益を被る事もあるかと思います。それがキリスト者としてこの世を生きる上での生きづらさであると思うのです。ですが、そのような経験を旧約聖書時代に信仰に生きた私たちの先達はしてきたのだと、この著者は言っているのです。
生きづらさなんてものではありません。
「また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。」
(ヘブライ人への手紙11章36節から38節)
ですが、主は世の国民となるより、世の旅人、寄留者、よそ者になることを望まれているのです。それは私たちがこの世を求め、世に属する国民になるより、主を求め、主の国の国民になることを望まれているからです。
そして、このような旧約時代に信仰に生きた先達、ヘブライ人への手紙12章1節では「証人」と呼んでいますが、彼らが私たちの側についているのだから、この世で旅人であっても安心しなさいと言っているのです。その証人にはこの浦和教会で召天された方々、いまこのリストに載っている方々も含まれるのです。さらに言うならば、主イエス・キリストがおられるのだから安心しなさいと言うのです。本日の第2の聖書箇所です。
ペトロもまた私たちはこの世では寄留者、旅人であれと言っています。(Iペトロ2章11節)
のみならず、彼はこう言っております。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(Iペトロ2章9節)
私たちはこの様に救われたのですから、この世の旅人としてキリストを伝えていこうではありませんか。
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