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「しるしと悔い改め」

2021年5月23日 聖霊降臨節第1主日 / 聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝

説教題:「しるしと悔い改め」

聖書 : 新約聖書 使徒言行録2章37-42節(216-217㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 本日は聖霊降臨日(ペンテコステ)と呼ばれる日です。ペンテコステとは主イエスの復活日であるイースター(今年は4月4日でしたが)から数えて50日目に聖霊が主イエスの弟子たちに降ったことをお祝いする日です。「ペンテ」とはギリシャ語で5を意味します。「ペンタゴン」という言葉を聞いたことはあるでしょうか?これはアメリカの国防総省なのですが、その建物は五角形です。この聖霊降臨日は私達、キリスト教徒にとって重要な日です。クリスマス、灰の水曜日、受難節(受難日)、復活日(イースター)、そして先週お話した昇天日と同程度の重要な日です。キリスト教会の誕生と教会の伝道の始まりの日を意味しているからです。


 聖霊が主イエスの弟子たちに降ったことで、彼らは異国の言葉で神を賛美しました。そしてこの時期、五旬節を祝うためにエルサレムに来ていたユダヤ人達もおりました。これらのユダヤ人達は外国で生まれ住んでいた人達でした。ちなみに五旬節とはモーセの律法によって「過越の祭り」の50日後に収穫を祝う「刈入れ祭り」もしくは「七週の祭り」を意味します。そんな彼らが生活している国々の言葉で同胞のユダヤ人達(主イエスの弟子たち)が神を賛美しているのを聞いたのです。彼らは驚いたことと思います。彼らの驚き様を聖書でこのように表しています。「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」(使徒言行録 2章5節から6節)さらに、このユダヤ人達の直接の言葉を見てみましょう。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(使徒言行録2章7節から11節)


 この主イエスの弟子たちが聖霊を受け、異国の言葉で神を褒め称えることを異言と言います。彼らは聖霊の力を受け、異言というしるしを人々の前に明らかにしました。これは主イエスがこの地上におられる時に示された奇跡と同様に力でもあります。主イエスが地上で伝道をされていた時、多くの奇跡(業)を行ってきました。そして、主イエスの業が主イエスの教えを証明する力でもあったのです。もちろん、主イエスの奇跡(業)やしるしばかり注目するのはあまり良くないかもしれません。主イエスご自身もファリサイ派の人々が主イエスに対してしるしを求めたことに対してこのように言いました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには与えられない。」この事において、主イエスが奇跡を求める事に対して否定的な考えを持っていたことがわかります。しかし、主イエスはこうも言われました。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もし、それを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」主イエスの言葉、御教えをそのまま受入れられないのであれば、主イエスの奇跡(業)によってそれを受入れなさいと主イエスはこの場面で弟子たちに言われたのです。この場面で主イエスは彼が起こす奇跡(業)に対して肯定的でした。前の否定的な態度の真逆です。何が違うのでしょうか?


 前者の時はファリサイ派やサドカイ派の人々が「主イエスが神の御子である事を証明して見なさい」という欲求によって主イエスにしるしを求めたからです。主イエスを試そうとして主イエスにしるしを求めたのです。これは荒野で悪魔が主イエスを試そうとして主イエスに様々な奇跡を要求すること、主イエスが十字架に掛けられた時に人々が嘲って「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイによる福音書27章40節)と言ったことと同じです。しかし、後者の時は主イエスのご意思の元、いや主イエスは自分勝手に行動していたのではなく、父なる神の御心に従って行動しているので、神の御心によって奇跡がなされていました。つまり奇跡がなされるためには神の御心に従ってなされなければならないのです。決して人の欲や試みによってなされてはいけないのです。


 では、この聖霊降臨とそれに伴う異言は人の欲によってなされた奇跡でしょうか?それとも神の御心によってなされた奇跡でしょうか?当然これらは神の御心によってなされたものです。なぜなら、主イエスご自身が地上で伝道をしていた時、弟子たちに聖霊降臨の事を話されていたからです。そして、復活され、弟子たちの前に現れた時、そして天に昇られた時にも主イエスは弟子たちにこの事を言われました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1章5節) そして「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1章8節)とあります。


 聖霊降臨と主イエスの弟子たちの異言という奇跡はこの後の ペトロの説教へと繋がりました。このしるしはペトロの言葉に人々を説得する力を与えたのです。それは主イエスがこの地上で伝道をしていた時、主イエスの業によって主イエスの言葉が人々に受入れられた時と同じです。ペトロの言葉、説教は使徒言行録2章14節から36節に書かれていますが人々はこのペトロの言葉を受入れ、悔い改めたのです。本日の聖書箇所です。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。」と37節に書かれています。それに対してペトロはこう答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」38節と39節です。ペトロはここで悔い改め、主イエス・キリストの名前による洗礼、罪の赦し、その結果賜物として聖霊を受ける事が出来るということ、そしてこれはユダヤ人のみならず全世界の人々に与えられていると言いました。このペトロの言葉を受入れ、その日に洗礼を受けた人の数が三千人ほどあり、彼らは仲間に加わり、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」と41節、42節にあります。伝道、悔い改め、救い、教会の設立がここにあります。


 ここまで見てみますと全ては主の弟子たちに聖霊が降ったというペンテコステ、それに伴う彼らの異言が伝道と教会の始まりでした。主の弟子達が勝手に伝道を始めたのではないのです。神の御心に基づく神のご計画によって神の力が弟子たちに聖霊降臨という形で与えられ、異言というしるしが人々の前に現されました。さらにペトロも人々に説教をしました。これも聖霊が彼を力づけたからに違いないと思います。ペトロは主イエスが逮捕された時、主イエスを見捨てました。彼は3度も主イエスを知らないと言いました。そして主イエスが十字架に掛けられ、亡くなられた後、ユダヤ人達を恐れ、故郷に帰り今までの事を忘れ、漁師に戻っていたような人物でした。しかし、彼は復活した主イエスと出会い、交わりをし、主イエスの昇天に立ち会うことによって勇気づけられました。ペトロはさらにこのペンテコステを通して力を与えられ、大胆に御言葉を語ったのです。驚くべき変化です。そのペトロの説教が人々を悔い改めに導き、その日の内に三千人ほどの受洗者が現れたということも驚かされます。そしてこの人々によって教会が作られていきました。


 聖霊降臨と異言という奇跡がなければ弟子たちは力を与えられませんでしたし、ペトロはあのような力強い説教を出来ませんでしたし、人々を悔い改めに導くことも、伝道も、教会の成立もなかったのです。ともすれば私達は勘違いしがちなのですが、すべては神から出発しているのです。この事を覚えつつこの教会の誕生日であるペンテコステを祝おうではありませんか。

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