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「すべての人々のための祈り」

2021年7月4日 聖霊降臨節第7主日礼拝 説教題:「すべての人々のための祈り」 聖書 : 新薬聖書 Iテモテへの手紙 2章1−8節 (385㌻) 説教者:伊豆 聖牧師


 祈りは私達キリスト者にとって、聖書朗読、賛美と同様にとても大切です。私達は礼拝や祈祷会といった公共の場でも祈りますし、個人的なデボーションでも祈ります。しかし私達がする祈りとは主に個人的な祈りが多いような気が私はします。私がまだ学生で礼拝前の日曜学校に参加していた時、最後は祈祷課題を出し合い、お互いに祈り合いました。また今でも月一回のオンラインによる牧師勉強会に参加させていただいています。そこでも私を含め参加している方々はそれぞれ祈祷課題を出し合い、お互いに祈り合います。しかし祈祷課題の内容はどうしても個人の事、家族の事、そして 教会の事が多いのです。もちろんこうした個人的な祈りをすることが悪いことではありませんし、必要な事です。しかし、私達はもう少し祈る対象を広げたほうがいいのかもしれません。新型コロナウィルスが発生しだしてからはこの終息のために私達は祈っておりますが、そういう意味で良い傾向だと思います。 パウロはエフェソの教会で牧会している彼の弟子テモテに祈りについて教えました。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」と本日の聖書箇所Iテモテへの手紙2章1節にあります。「まず第一に勧めます。」という言葉があります。とても強い言葉でこの節が重要だということをパウロはテモテに伝えています。次に「願いと祈りと執り成しと感謝」です。「願い」とは特別なものであり、特定の必要のために神に求める行為です。もちろん、神は私達が求める前から私達の必要なことや必要な物をご存知なのですが、それでも私達が神に求める事は大切です。私達はその事を聖書の御言葉を通して知っています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」マタイによる福音書7章7節から8節です。また、福音書では多くの人々が主イエスに病気を癒やしていただき、悪霊を追い出していただきました。人々はこれらの「願い」を通して神と関わりを持ったのです。  「祈り」とは何か特定なものを神にお願いするといった事ではなく、礼拝と神との交わりです。自分を神に捧げる行為と言ったらよいでしょうか。主イエスがサマリアの女性に言われた言葉はご存知でしょうか?「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と 真理をもって礼拝しなければならない。」ヨハネによる福音書4章24節です。「執り成し」とは他人の利益のため神の御前で調停し、仲裁することです。この「執り成し」の元の言葉(ギリシャ語)は「信じきった態度で神に近づく」です。もし私達が信じ切った態度で神に近づくことが出来るのであれば神の御前で他人のために調停、仲裁することが出来ます。そしてパウロはテモテにそれが出来るし、それをすべきであると手紙の中で言っているのでしょうか?それは主イエスが神と私達の垣根を取り除いたからです。だからこそ私達は大胆に神に近づくことが出来るのです。最後に「感謝」です。私達は神に感謝しなければいけません。私達は神が私達のためになされたこと、また神がご自身のお考えのもとになされたことに感謝しなければなりません。常に神に感謝すると いう事は私達を傲慢や高ぶりといった罪から逃れさせてくれます。逆に もし私達が神に対して感謝するという事を忘れ、神が私達のために何かしてくれたとしてもそれが当たり前だと思い始めたら、私達は罪への道を歩み始めるのではないでしょうか?  「願い」「祈り」「執り成し」「感謝」という四つの行為は広い意味では 祈りです。皆さんにとって馴染みがあるのはこの中の「願い」かもしれませんが、この四つの行為が重要なのです。さらにパウロはこれらの祈りを私達のためだけでなく、すべての人々のために神に捧げなさいと言っています。これはなかなか難しいことではないでしょうか?  第一に私達自身もしくは私達の近しい周りの人間のためであれば、具体的に状況を想像することが出来、親身になって祈ることが出来ます。しかし私達と関係の薄い人々だと彼らの状況を具体的に想像出来ないからです。だからこそ親身になって祈ることが出来ない。例えばアフリカで貧困にあえいでいる子どもたちのために祈るとします。私達はテレビ報道、新聞、インターネットを通じて彼らの状況を理解し、想像しますが、私達自身や私達に近しい人間、例えば友人、家族、職場の同僚ほどには具体的に想像は出来ません。そしてどこか遠い国の出来事としてしまいます。  第二に私達には好き嫌いという感情があり、利害関係もあります。例えば、自分にとって嫌だとか苦手だと思っている人がいるとします。さらに言うならば憎んでいる人がいるとします。その人のために祈るのは大変難しいのです。また、利害関係で敵対している人がいるとしてその人のために祈ることも難しいのです。  しかし嫌だなと思う人、憎んでいる人、そして敵対している人のために祈るようにと主イエスは言われました。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」マタイによる福音書5章44節です。パウロもこのように言いま した。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」ローマの信徒への手紙12章14節です。  このようにパウロは自分の身として実感できない人そして憎んでいる人を含めたすべての人のために祈るというとても難しいことをテモテに求めました。なぜでしょうか?それはある特定の人々の ためだけ、例えば教会の人々ためだけに祈るということが何か特権階級と言いますか、閉鎖的な集団を生み出すという危険性があったからです。事実、本日の聖書箇所Iテモテへの手紙2章の前の章でその事をパウロはテモテに警告しました。Iテモテへの手紙1章3節から7節です。「マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切のない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。」パウロがここで非難している人々こそが特権階級意識を持った閉鎖的な集団だったのではないでしょうか?そういう意識を持たないようにするためにパウロは弟子のテモテに対してすべての人のために祈りなさいと命じたのではないでしょうか?  本日の聖書箇所に戻ります。2節です。「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、 平穏で落ち着いた生活を送るためです。」この事もテモテにとって、 もっと言うならば、その当時を生きていたキリスト者達にとって 難しいことであったでしょう。当時この地域を支配していたのは ローマ帝国でしたし、キリスト教は迫害されていました。心情的に王や高官のために祈りなさいというパウロの指導はテモテにとって、そしてエフェソにいたキリスト者達にとって受け入れ難かったかもしれません。しかしパウロはこのようにテモテに命じました。その理由は彼らが「信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」とあります。確かにキリスト教は迫害されていました。しかし、もし国が乱れ、秩序もなにもない混乱状態であったら、どうだったでしょうか。ローマ帝国が混乱し、エフェソも混乱し、暴動が起こり、それを鎮圧すること出来なかったらどうでしょうか?そこでキリスト者たちが「信心と品位を保つ」という信仰生活を送ることや「平穏で落ち着いた」一般の生活を送ることが可能だったでしょうか?いや、出来ません。そして混乱や暴動を収め 秩序を社会にもたらすのは王や高官達だったからです。だからこそパウロはこのような祈りをしなさいと弟子のテモテに命じたのです。  パウロはローマの信徒への手紙13章1節から7節でも支配者への従順を言っています。1節にこのよう書かれています。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」つまり王や高官の権威は神から来たものであり、彼らの権威によって社会秩序が保たれており、そのおかげで地上に生きるキリスト者が信仰生活、そして 一般生活を営むことができるので、彼らのために祈る べきであるということです。この考え方は旧約聖書にも見受けられます。バビロン捕囚となった人々に対して神はエレミアを通して語りました。 「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」エレミヤ書29章7節です。  この事を現代に置き換えますと、日本政府、菅総理大臣、閣僚、国会議員、官僚の方々のために祈りなさいということになるのでしょうか?しかし私達の口から出てくる言葉は祈りよりも批判の方が多いのではないかと思います。もちろん、私達は民主主義の国に生きておりますし、批判をする権利も保証されております。批判をしたからといって、逮捕され、投獄されるということはありません。しかし、私達は国のリーダー達の批判ばかりではく、神のこの考えも理解し、私達の国のリーダ達のために祈ることも必要だと考えます。  キリスト者が信仰生活と平和な生活を送ることを神は喜ばれているということを3節でパウロは言っています。そしてそれらの生活は国のリーダたちによる社会秩序の上に成り立っているのです。  私達の国で言えば、行政、立法、司法が機能し、警察組織が機能しているからこそ、秩序が保たれているのです。無政府状態になり、略奪などが起これば、大変なことになります。  更に言いますとパウロがテモテにそして私達に、すべての人々のために祈りなさいと命じているのは神がすべての人が救われて、真理を知ることを望んでいるからだと4節にあります。そして主イエスがすべての人の罪の贖いとして捧げられたということなのです。私達はこの主イエスの贖いのおかげで救われたのです。主イエスの十字架を通してすべての人を救うという事が神の望みであり、ご計画であるならば、救われた私達もすべての人々の救いのために祈ろうではありませんか。

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