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「すべての人の救いのための神のご計画」

2022年10月9日 聖霊降臨節第19主日礼拝

説教題:「すべての人の救いのための神のご計画」

聖書 : 新約聖書 ローマの信徒への手紙 11章25-36節(291㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 パウロはここで異邦人のローマの信徒に警告しています。「…自分を賢い者とうぬぼれないように」と(ローマの信徒への手紙11章25節)

 神はアブラハム、その息子イサク、そして孫のヤコブとその子孫たちを選び、祝福しました。子孫の繁栄と土地の確保です。実際彼らは繁栄し、約束の土地カナンを与えられました。イスラエルの民は国まで立ち上げたのです。ダビデ王、ソロモン王がその国を確立したと言っていいでしょう。しかし、全体的に見て、イスラエルの民は神に反抗してきました。もちろん、アブラハム、イサク、ヤコブを始めとして信仰に生きた人々は大勢いました。しかし、民族としては神に反抗し、偶像に仕え、度々神の怒りを引き起こし、神に罰せられました。

例えば、奴隷状態であったエジプトから神はモーセというリーダーを立てられ、エジプトから脱出させました。しかし、民は何度も神に反抗したので、神は神に従ったヨシュアとカレブ以外の人々を約束の土地カナンに入らせませんでした。彼らの子供の世代をその土地に入らせたのです。しかし、ヨシュア亡き後、彼らはまたも神に逆らい、その土地に住んでいる人々の習慣に従い、偶像に従ったのです。神は彼らを罰し、何度も敵の手に渡すのですが、その度に彼らは神に救いを求め、神は士師という助け主を起こし、彼らを救うのですが、救われるとまた彼らは神に逆らい、偶像に仕えるという悪循環を繰り返したのです。

 ですが、先程申し上げたように、このイスラエルの民の国はダビデ王、その息子のソロモン王で確立されました。しかし、最初は神に従っていたソロモン王もやがて神から離れ、偶像に仕えるようになります。そのせいで、神は国をイスラエル王国とユダ王国の二つに割ってしまいます。そして、両国とも神に逆らい、偶像に仕え、国内では不法がはびこりました。神は何度も預言者を両国に送り、神に立ち返るよう促し、一時的に立ち返った時もあるのですが、結局両国とも他国に滅ぼされ、ユダ王国に至っては、住民が全てではないのですが、バビロニア王国に移送されました。いわゆるバビロン捕囚です。やがて、バビロニア王国はペルシャによって滅ぼされ、キュロス王によって彼らは国に帰り、壊された神殿や街の再建を許されました。しかし、結局、後にローマ帝国の支配に属する事になったのです。


 そのような中で主イエス・キリストが神の御子、メシアとして来られたにも関わらず、最終的に彼らは主イエスを否定し、十字架に掛け、殺してしまったのです。のみならず、その後、主イエスを信じるキリスト教徒を迫害し続けているのです。

彼らは神に選ばれたにも関わらず、神に逆らいつづけ、預言者を迫害し、御子イエスを否定し、キリスト者を迫害してきたという事です。なので、彼らは救いから漏れてしまっているのです。彼らの特徴の一つに自分達は神に選ばれた特別な民なのだという意識があります。いわゆる特権意識です。そして、異邦人を蔑んでいたのです。もちろん、彼らが以前異邦人と交流し、彼らの神を拝むという偶像礼拝によって神の怒りを引き起こしたので、その反省から異邦人との接触を避けるのは良い事だと思います。しかし、彼らは異邦人を蔑み、優越感を持ち、自分達は神に選ばれた民であるという妙な特権意識を持っていました。それは神の前にあって正しいことではないと私は考えます。洗礼者ヨハネは彼らにこのように言いました。「アブラハムが自分達の父などと思ってもみるな。神はこの石ころからでもアブラハムの子たちをお造りになる事ができる。悔い改めにふさわしい実を結べ。」

これは「特権意識を排除し、神に従い、神の御心を行いなさい。」という事です。

しかし、彼らはそうすることが出来ませんでした。主イエスを否定し、十字架に掛けて殺したのです。この特権意識こそが彼らの罪であります。自分達は神に選ばれたと考え、異邦人を差別するという奢り、高ぶりです。そして、それがやがて主イエスを否定し、彼らを神から離れさせたのです。

 そして、パウロは異邦人のローマの信徒たちに賢い者と自惚れないようにと警告しています。それはパウロが彼らにもイスラエル人と同様な奢り、高ぶり、そして特権意識を感じたのではないでしょうか?つまり、イスラエル人は主イエスを否定したのだから、救われてなくて当然だ。そして私たちは主イエスを信じ、救われたのだ。そのような優越感です。それはまた、彼らがイスラエル人を差別する事になります。それは奢り、高ぶり、そして特権意識であり、罪なのです。ですから、パウロはそのような罪からローマの信徒を守ろうとしたのです。

 さらに言うならば、パウロは同じ同胞であるイスラエル人から福音を伝えることで迫害されていました。ですから、彼は同胞に対して良い感情を持っていなかったのも事実でしょう。しかし、それでも彼らは同胞なのです。パウロは異邦人に福音を伝えるという役割を担いましたが、彼は同胞の事を、同胞の救いの事を諦めたわけではないのです。彼の同胞愛はローマの信徒への手紙9章1節から5節に書かれています。そして、彼が同胞の救いを諦めていない理由は何も同胞愛だけからではないのです。それがすべての人の救いのための神のご計画なのです。本来、神はアブラハムを選ばれたので、その子孫であるイスラエルの民をまず救われるはずだったのです。しかし、彼らは福音を、神を最終的に拒んだのです。そして本来選ばれなかった異邦人たちが福音を信じ、主イエスを信じ、受け入れたので、異邦人たちが先に救われてしまったという事になるのです。しかし、これで終わりではないとパウロは言っているのです。異邦人が救われた後、イスラエル人も救われると彼は確信しているのです。それは異邦人がかつては神に不従順であったが、イスラエル人の不従順によって神からの憐れみを受けているように、今イスラエル人は不従順であるが、彼らもまた神からの憐れみを受けるだろうと言っています。

神はすべての民を不従順に置きましたが、それはすべての人を憐れみ、救われるためであったという事です。そして、イスラエル人の先祖の神による選びは取り消されないという事、つまりイスラエル人は神に見捨てられていないという事です。

私たちは自分達が主イエスを受け入れ、救われた事を感謝します。しかし、その事が他者を差別する事、高ぶる事につながるのであれば、それは神の御心ではないのです。むしろ、私たちは主イエスに感謝し、私たちに与えられた福音を宣べ伝え、神がご計画されているすべての人の救いに少しでも貢献するよう努めようではありませんか?

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