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「たとえで語るキリスト」

2022年2月6日 降誕節第7主日

説教題:「たとえで語るキリスト」

聖書 : 新約聖書 マルコによる福音書 4章10-12節(67㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 たとえというのは何か難しい物や難しい事を、それと類似した私達の周りにある事を話すことによって説明することです。このたとえの上手い人は人に物を教えることが上手い人であり、良い教師の資質を持っているのではないかと思うのです。そして、たとえの上手い人は、それなりの人生経験と知識を持っている人そして抽象的なものを具体的なものとして理解することにたけている人だと考えます。さて、たとえを使って人になにかを理解させるためにはどうしたら良いでしょうか?当然、そのたとえを聞いている人はたとえそのものを理解は出来ます。しかし、たとえを話している人はたとえそのものをその人に理解してもらいたいと考えているのではなく、たとえを通して何か難しい物もしくは何か難しい事を理解してもらおうとしているわけです。もし、そのたとえを聞いている人がその事を理解出来なければ、そのたとえ話は失敗ということになるのです。


 たとえ話の事を話しているからというわけではないのですが、私も少したとえ話をさせていただきます。私が何かコンピュータ ソフトウェアの営業をしていたとしましょう。そして、ある会社に営業のため訪問したとします。もちろん、その会社のニーズにあったソフトウェアです。ですが、そのソフトウェアをそのまま説明すると複雑すぎて、相手の会社の方々に理解されなかったとします。その時こそ、たとえの出番です。その複雑な事をより具体的な、より身近な、より簡単な事に置き換えて説明するのです。ですが、ここで重要なことは、たとえが実際の説明に合致して相手に伝わらなければなりません。つまり、説明する相手の頭の中により身近な事と複雑なソフトウェアの事が合致し、そのソフトウェアの説明が相手に理解されなければなりません。でないと、そのたとえ話は失敗となり、その商談も失敗となってしまうということです。


 主イエスは地上での伝道で良くたとえを用いられましたが、果たして、そのたとえ話は成功したといえるでしょうか?

マルコによる福音書4章1節から9節で主イエスは種を蒔く人のたとえを語られました。聞いた人々はたとえそのものの意味は理解出来たかもしれません、しかしその真の意味を理解出来ませんでした。主イエスの弟子たちですらわかりませんでした。だからこそ、本日の最初の聖書箇所マルコによる福音書4章10節にあるように、彼らは主イエスにそのたとえの真の意味を尋ねたのです。主イエスは13節から20節にかけてこの「種を蒔く人のたとえ」の説明をされました。しかし、その前の11節から12節にかけて、主イエスは御教えを、たとえで語られる理由そして弟子たちにだけその説明をする理由を話されました。まず、一般的にいって、たとえを用いて何かを説明する場合、最初に語る相手に真の意味を理解させないといけません。たとえを語ったときに一発で「ああ、このことはあのことを言っているのだな。」と相手に思わせなければならないのです。そうでなければ、そのたとえは失敗です。営業では失敗となってしまうのです。つまり、主イエスのたとえは一般的に見れば、失敗だったと言わざるを得ないのです。なぜなら、一発で理解されず、説明を必要としなければならなかったからです。さらに、限られた人達、つまりお弟子さんたちにだけしかご説明なさらなかった。9節の「聞く耳のある者は聞きなさい」、11節の「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」、12節「それは『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち返って赦されることがない』ようになるためである。」という文を見てみると、主イエスは何のために御言葉を語っているのかわからなくなってしまいます。なぜなら、たとえというものは人に物事を理解しやすくするために、用いられるものなのに主イエスは逆に理解しにくくしています。さらに、主イエスは説明を求めた弟子たちに対して13節ではこのように言われました。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」

ここでは明らかに主イエスは弟子たちの無理解を嘆きました。


 大事なことは主イエスがたとえを用いて説明する事は一般的に私達がたとえを用いて説明する事とは異なるのではないかということです。私達は営業にしろ、何にしろ、何かをたとえで説明する時、説明する側に責任があるということなのです。たとえで説明し、相手が理解できなければ、それは説明をした側に責任がある、説明不足であり、失敗だということです。しかし、主イエスのたとえの説明は聞いた人々が理解しなければならない、つまり、理解できないのであれば、理解できない当人の責任ということになります。 

さらにいえば、12節では、なにか聞いた相手が理解できなくなるのを期待しているような印象さえ私に与えるのです。


 しかし、やはり神はそして主イエスは人々を救われたいと願っておいでだと思いますし、だからこそ十字架に掛かられて、死なれたのです。ですから、たとえを理解するのは私達の責任であるということです。もし、私達が理解できないとすれば、何が原因なのでしょうか?なぜ、「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」状態になってしまうのでしょうか?それは私達の罪がそうさせるのではないでしょうか?そして、私達にはその罪を取り除く力がないのです。

ですから、主に願うのです。それを取り除いていただくようにと。

主イエスが安息日の日に盲人を癒やしたことがありましたが、その、主イエスはご自分が癒やした男にこう言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(ヨハネによる福音書9章39節)

その時ファリサイ派の人々は「我々も見えないということか」と言ったところ、主イエスはこう答えられました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネによる福音書9章41節)

つまり、ファリサイ派の人々は「自分は見える」「自分は神の前に正しい」と言っていたのです。「律法による義」ひいては「律法を守っている自分達の義」によって「自分達は正しい」と言っていたのです。そうではなく、「私達は見えません」と認め、主に助けを求めるのです。そのときに、罪が取り除かれ、霊の目が開かれ、聖霊が働き、主イエスのたとえを理解することができるのです。

そのように、日々主に祈りつつ、信仰によって歩んでいこうではありませんか。

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