「わたしのもとに来なさい」
2022年6月26日 聖霊降臨節第4主日礼拝
説教題:「わたしのもとに来なさい」
聖書 : 旧約聖書 イザヤ書55章1-5節(1152㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
まだ、6月なのですが、もう既に夏本番のように気温が高くなっていますね。皆さんも熱中症に気をつけて下さい。特に水分の補給は怠らないようにして下さい。水分は私達にとって必要不可欠のものでありますし、それがないと命に関わりますから。ですから、皆さんが渇きを覚えたら、即座に水分を飲めるようにしておかないといけないと思います。
本日の聖書箇所でもこのように言われています。
「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」
先程も申し上げたように「水」は私達が生きていく上で必要不可欠なものです。そして、ここで言われている「水」も確かに私達が想像する物質的な「水」であるとも言えます。しかし、この「水」は単に物理的な「水」という意味ではなく、神の御言葉であるとも言えます。そしてこの中で「水」は様々な物に言い換えられています。「穀物」「ぶどう酒」「乳」といった物です。
つまり、私達が生きていくため必要な「飲み物」と「食べ物」です。私達が生きていくためには物理的な「飲み物」と「食べ物」と霊的な「飲み物」と「食べ物」である「御言葉」、「御教え」、「祈り」、「礼拝」が必要なのです。
主イエスが荒野でサタンに試みられた話は皆さんも何度もお聞きになられたでしょうし、私も今までの説教でお話ししました。主イエスは四十日間の断食をなされた後、サタンが来てこう言いました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
(マタイによる福音書4章3節)
主イエスはなんとお答えになられたのでしょうか?
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」とお答えになられました。もちろん、これは主イエスが実際の食べ物である「パン」を軽視しているのではありません。私達も生きていくために実際の「食べ物」や「飲み物」が必要なことぐらいわかっています。しかし、私達はただ「食べ物」を食べ、「飲み物」を飲んだからといって生きていることにならないのです。
例えば、ある人が毎日の食事に足りていたとしても、学校や職場で人間関係の問題を抱えていたとしましょう。モラハラ、パワハラ、いじめといった問題はどこにでもあるものです。その被害に遭(あ)っている人達は果たして生きているといえるでしょうか?
もちろん、「そんな問題はどこにでもある。今、食べて、飲めるだけでいいじゃないか?世界には貧困や戦争で食べることや飲むことが出来ない人々が大勢いる。その人たちに比べればマシじゃないですか。何、贅沢(ぜいたく)な事を言っているのですか。」という厳(きび)しい意見もあるかと思います。しかし、実際に被害にあっている人にとってみれば、たいした事なのです。そしてそれが原因で当人が死を選ぶ可能性もあります。それを当人が弱かったからと切って捨てるのは如何(いかが)なものでしょうか?
また、今の世の中というものは何が正しくて何が間違っているのかということが以前に比べるとよく分からなくなっていると思います。ワイドショーを見れば、様々なコメンテーターの方々が様々な事を口にします。そして、当然常識的に見ても、良識的に見ても正しくない意見が正しいかのごとく報道されもします。
また、最近ではユーチューバーといった方々が常識的に見ても、良識的に見ても、さらに言うならば、犯罪的な行為を犯しても、反省するどころか、不遜に振る舞うような事がまかり通ってしまいます。
以前にも話しましたが、多様性という言葉があります。英語で言えばDiversityです。もうこの言葉すら何か廃(すた)れてしまった様なのですが、「世の中には様々な意見があっていいのです。その様々な意見が世の中を豊かにするのです。物事を白と黒で分けることは出来ないのです。」という意見ですね。確かにこの意見はもっともなのですが、この意見が今の状況を的確に表しているとは思えないのです。つまり、世の中に善悪の基準のない、混沌としている事や明らかに悪い事を多様性という言葉で容認しています。
その様な中で自分なりに何か一つ芯になる物を見つけようと私達は足掻(あが)いているのかもしれません。そして、それが偶像となるのです。お金を含めた財産、社会的地位、学歴、占い師、哲学、宗教、信頼している先輩や近親者、インフルエンサー、もしくは自分自身等など数え上げればきりがありません。もしくはもうその時その時の人の意見、世の中の意見に右往左往して生きているのかもしれません。ですが、そんな私達に対して神はこう言われるのです。
「わたしのもとに来るがよい。」と。
このイザヤ書はエジプトの奴隷状態から導き出した主なる神を捨てたイスラエルの民に対して神が預言者イザヤを通して語られた言葉です。彼らは各々好きな神を拝み、自分の目に良いとすることを していました。不正がはびこっていました。この事も多様性と言う事が出来るかと思います。そして先程話した多様性の理屈(様々な意見が世の中にあるという事はいい事であるという理屈)でこの当時のイスラエルの民の行動を正当化出来るのです。
この世はつねに「物事を捻じ曲げること」英語で言えばディストーション、「印象操作」マニピュレーションで溢(あふ)れています。これは「世の力」なのです。
私達はどうしたらただ単に「食べて」「飲んで」生きるだけでなく、本当の意味で生きる事ができるのでしょうか?
どうしたら、こうした「世の力」に負けず、むしろ「世の光」「地の塩」となり、世の中で生きることが出来るでしょうか?
神はこう言っておられるではありませんか?
「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい」と言っておられるではありませんか?
「渇きを覚えている者は皆、水のところ(つまり神の元)に来るがよい。」と言っておられるではありませんか?
主イエスはサマリアの女になんと仰られましたか?
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
(ヨハネによる福音書4章14節)
私達が神の御許に行き、その水を飲むのを妨げているのは何でしょうか?
プライドでしょうか?自分自身の経済的な力、地位、学歴でしょうか?自分自身を神に預けることへの恐怖でしょうか?その生ける水を得るためにお金が必要ではないかという心配でしょうか?
そのせいで私達は神からの生ける水よりも何か世の中的な安定を求めているのではないでしょうか?
だとするならば、神はこう仰せられています。
「銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め
価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」(1節)
代金はいらないのです。
さらに、「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか」(2節)
とまで神は仰せられているのです。
私達はただ神の御許に行きさえすればよいのです。ですが、私達はなかなか神の御許に心から行こうとはしないのです。
主イエスがかつてファリサイ派の人を批判してこう言われました。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネによる福音書5章39節から40節)
そして、主イエスはこうも仰られました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
(マタイによる福音書11章28節)
私達は父なる神が仰られた、そして御子主イエスが仰られた「私のもとに来なさい」という言葉に従おうではありませんか。自分の中にある偶像を捨てて。
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