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「わたしの羊を飼いなさい」

2024年4月14日 復活節第3主日 

説教題:「わたしの羊を飼いなさい」

聖書 : ヨハネによる福音書 21章15節-17節(211㌻)​​

説教者:伊豆 聖牧師


 ご復活された主イエスが弟子達に何度か現れたのはご存知かと思います。前回はエマオに向かっている二人の弟子達の前に現れました。最初は主イエスは彼らにご自身が主イエスであると悟らせないで、歩いて主イエスの事を語りあっている弟子達の会話に加わり、聖書を解き明かしつつご自身の事を明かしされました。そして彼らとの最後の食事の時に主イエスであることを悟らせました。それはやはりその時には主イエスを見ないで、つまり主イエスを主イエスであるとわからないでも復活したということを確信してほしいと主イエスは彼らに願ったのだということを私は言いました。「見ないでも信じる」それこそが信仰であるからです。

 世の中には見ないで信じる人、見て信じる人、見ても信じない人がいます。少し話が脱線するかも知れませんが、大谷翔平さんの話をさせていただきます。彼の通訳である水原一平さんがスポーツギャンブルのために多額のお金を大谷さんの口座から盗んだということが報道されました。最初ESPN(アメリカのスポーツ報道番組)は水原さんにインタビューしました。水原さんがギャンブルで多額の借金をして、大谷さんにその事を話し、肩代わりしてもらい、大谷さんと一緒にそのギャンブルの胴元に送金をしたということでした。ですが、カリフォルニア州ではスポーツギャンブルは違法であり、それですと大谷さんが違法のスポーツギャンブルに関わっていることになります。またMLBでも野球に関するものは禁止とされています。水原さんは最初のインタビューを撤回します。大谷さんは何も関わっていなかったというのです。嘘を言ったということです。

 ですが、周りの人間はそうは見ませんでした。球団側が圧力をかけて大谷さんを守るために彼に撤回させたと思ったようです。大谷さんの弁護士、会計士、代理人等が精査をした結果、水原さんが大谷さんの口座からお金を盗んだということが明らかになり、ドジャーズでの大谷選手の記者会見となりました。大谷選手の口から水原さんが彼の口座からお金を盗んで胴元に送金したことが明かされました。大谷さんは何も知らなかったということでした。

 ですが、その時でも具体的な手口が説明されていない等の理由で大谷さんが水原さんに同情してお金を一緒に振り込んだもしくはさらに悪いことに大谷さんが積極的にギャンブルをしていて水原さんが犠牲になったということまで言い出す輩もいるという始末です。さらには日本のワイドショーのコメンテーター、国際弁護士と言われる輩、インフルエンサーと言われる輩などもそのように大谷さんを疑い、酷いときなどは断定すらしていました。

 ですが、連邦検事が水原さんの訴追を発表しました。そして水原さんがどのように大谷さんの口座からお金を盗んで送っていたかということを具体的に明らかにしました。水原さんと大谷さんとの通信履歴と通信内容。水原さんと胴元との通信履歴と通信内容も調べ上げ、大谷さんはギャンブルに全く関わっていなく、同意して送金をしてもいなく、全くの被害者であることを発表しました。それでもそれだけの大金が盗まれていれば気づかない訳がないと言っている人々はまだおられるようですが。

 ずいぶんと長々と話してきましたが、何が言いたいかというと人は信じたいものを信じるということです。

 さて主イエスの場合はどうだったでしょうか?主イエスがまだ生きておられた時、民衆は主イエスの御言葉と御業に歓喜し、弟子たちは主イエスに従いました。ですが、主イエスに従わなかった人々もいました。その中の代表的な人々はファリサイ派の人々や律法学者たちでした。彼らは自分たちが信じる律法に反するから、そして自分達の権威が脅かされるからという理由で御業(奇跡)や優れた御言葉を示された主イエスに反対し、民衆を扇動し、十字架につけて殺してしまったのです。この事に私達もまた注意しなければなりません。弟子たちは彼らよりましでしたが、それでも見ないで信じるという信仰に立つことが出来ませんでした。見て信じるわけです。

 ですが、そのような弱い弟子たちに主イエスは同情出来ない方ではありませんでした。ヨハネによる福音書によれば、弟子たちにご自身を現されたのは三回目となります。最初にご自身を現されたことは20章19節から23節に書かれています。二回目は24節から29節です。そして三回目は21章1節から14節です。シモン・ペトロと仲間の弟子達ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子達がいたのですが、シモン・ペトロが漁に行くと言い、仲間の彼らも一緒になってガリラヤ湖に行って漁をしだしたのですね。ペトロは生きる目的を失って自分の元の職業に戻ろうという事でしょう。まあ食べていくためには働かなければいけませんし、元に戻るのは当然かもしれません。しかし、ヨハネによる福音書によるとこの前に彼らは二度ご復活された主イエスに会っているはずなのに、元の職業に、少なくともペトロに関しては元の職業に戻ろうとするのはいかがなものかと思う次第ではあります。これでは絶望してエマオへの道に戻る途中であった二人の弟子達と同じではないかと思うのです。

 しかし、主イエスはそんな弟子達をほうっておくことはしませんでした。主イエスは岸から漁をしている弟子達に食べ物はあるか、つまり魚は取れなかったかと聞かれました。彼らはありません、つまり魚は取れなかったと答えられました。そうすると船の右側に網を打ちなさいと言われました。彼らがそうすると大量の魚が取れました。   

さて、この話どこかで聞いたことはないでしょうか?ルカによる福音書5章1節から11節に書かれているペトロの召命の物語です。これは偶然でしょうか?

 彼らは最初声を掛けたのが誰だかわかりませんでしたが、やがて主イエスだと気づきました。彼らは取った魚を岸まで運んできて、その中の何尾かを取ってきて主イエスと共に朝の食事を取りました。主イエスと共に食事を取る。なんと素晴らしいことでしょう。エマオに着いた弟子達もまた主イエスと共に食卓を囲みました。またご生前主イエスは何度も弟子達と一緒に食事を囲みました。主イエスが逮捕される直前も弟子達と食事を取られました。最後の晩餐です。また、使徒信条にも聖徒の交わりを信じると書かれていますね。キリスト教ではいかにこの交わりが大切かということがわかります。先週も掃除の後軽い食事会をしましたが、とても楽しい時間を過ごしました。

 さて、主イエスが弟子達と食事をした後の事が本日の聖書箇所です。ペトロに対して主イエスは「わたしを愛しているか。」と問われます。それも三度もです。その度にペトロは「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です。」と答えました。三度もペトロに聞かれるなんて主イエスはなんかいじわるだなと思ってしまいます。そんなに疑わなくてもとも思ってしまいますが、主イエスが逮捕された時ペトロは主イエスを見捨てたのです。ですから、そう聞かれてもしょうがないのではないかとも思われます。

 ですが、そうではないのです。主イエスの最初の「わたしを愛しているか。」という問いに出てくる愛は原文では犠牲を伴う愛なのです。ですが、ペトロが答えた「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です。」の中の愛は普通に愛するというかそういう愛なのです。つまりペトロが主イエスに対して表している愛は主イエスがペトロに求めている愛に足りないのです。2回目の主イエスとペトロのやり取りも同じです。3回目には主イエスはもうペトロにこの犠牲を伴う愛を求めませんでした。つまりペトロと同列の普通の愛をお求めになられたのです。主イエスがペトロに求められた愛に達しなかったのは彼の弱さです。まだ聖霊も降臨しておらず、力も弱かったのでしょう。

 ですが、主イエスはその弱さに同情出来ない方ではないのです。主イエスは魚の漁に戻ってしまったペトロをもう一度同じ状況にしました。きっとペトロは自分の召命の事を思い出したに違いありません。魚を漁していた彼は「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」という主イエスが彼を召した時の言葉を思い出したに違いありません。それから主イエスは三度も「わたしを愛しているか。」と彼に問われました。そして三度「わたしの羊を飼いなさい」と彼に仰ったのです。

 ペトロはペンテコステの後、人間をとる漁師、主イエスの羊を飼う羊飼いになりました。私たちもまた主イエスによって、聖霊によって慰めと力を得ることができるのです。彼のように。

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