「わたしを愛しているか」
2021年4月11日 復活節第2主日礼拝
説教題:「わたしを愛しているか」
聖書 : 新約聖書 ヨハネによる福音書21章15-19節(211-212㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日の聖書箇所は復活なされた主イエスが彼の弟子たちと食事を終えた場面です。ここまでの経緯はヨハネによる福音書21章1節から14節に書かれています。ある日シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち、他の二人の弟子たちが一緒にいました。ペトロが「漁に行く」と言うと他の弟子たちも一緒に行くと言って、一晩中漁をしますが、魚は取れませんでした。その時、主が現れ、彼らに「船の右側に網を打ってみなさい」と言われ、彼らがそのようにすると大量の魚がその網にかかっていました。彼らが網とともに岸に上がると主イエスが待っていて、炭火の上に魚が置かれ、パンもありました。そして、彼らとともに朝食を取りました。復活された主イエスとの交わりはとても素晴らしいことであったと思います。聖書には記されていませんが、多分彼らは食事をしながら様々な事を語り合ったのだろうと推察します。
しかし、食事を終えた後、主イエスはペトロにこう尋ねます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」ヨハネによる福音書21章15節です。ペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」このペトロの答えに対する主イエスの言葉は「わたしの小羊を飼いなさい」です。
16節もペトロと主イエスとの間で同じようなやり取りが繰り返されます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」という主イエスの問いに対してのペトロの答えは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」です。そして「わたしの羊の世話をしなさい」という主イエスの言葉が続きます。さらに18節でも主イエスとペトロとのこのやりとりが続きます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と主イエスが尋ねられペトロが「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」それに対する主イエスの言葉は「わたしの羊を飼いなさい。」です。
なぜ、主イエスはペトロに三度も「わたしを愛しているか」と尋ねたのでしょうか?主イエスが逮捕された時、ペトロは三度彼の師である主イエスの事を知らないと言ったからです。この事はマルコによる福音書14章66節から72節に書かれています。大祭司に仕える女中がペトロにこう言いました。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」その女中の言葉に対してペトロはこう返しました。「あなたが何のことを言っているのか、わたしにはわからないし、見当もつかない」。さらに、女中は周りの人々に「この人は、あの人たちの仲間です」と言いましたが、ペトロはその事を否定しました。そして、最後にそこに居合わせた人々がペトロに「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」と言いましたが、ペトロは呪いながら「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めたと聖書にあります。ペトロに裏切られた時主イエスはどんな思いを抱いたことでしょうか?マタイによる福音書10章33 節では「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」と主イエスは明言されました。とすると主イエスがペトロに三度も「わたしを愛しているか」とお尋ねになったのはペトロを詰問し、最終的に彼を見捨てるためだったのでしょうか?それは違うと思います。もちろん、主イエスにとってもそしてペトロにとってもこの事は避けて通れない事だったと思います。しかし、主イエスは人の弱さに同情できない方ではないのです。本日の聖書箇所の15節で主イエスがペトロに「わたしを愛しているか」と尋ねた時、「愛している」の原語はギリシャ語の「アガパス」です。アガペーという言葉を聞かれた方もおられると思います。それは高く高貴な愛と訳されます。例えば、父なる神が人々を愛する愛、主イエス・キリストが私達の罪のために死んだ時、私達にお示しになった愛です。つまり、主イエスはペトロにそれだけの愛を求めたわけです。しかし、それに対してペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」と答えた時の「愛している」のギリシャ語は「フィロ」です。これは友達の間の愛情を表します。主イエスはご自分が示されたような愛をペトロに求めたのに対してペトロは友達の愛しか主イエスに示すことが出来なかったのです。主イエスは16節でもこの高貴な愛をペトロに求めますが、ペトロは 相変わらず友達の愛情しか示すことは出来ません。17節で主イエスはペトロに友達の愛情を求め、ペトロはその友達の愛情を示しました。いわば、主イエスはペトロに求める高貴な愛から友達の愛まで低くしたのです。
主イエスがペトロに求めたアガペーの愛、高貴な愛に答えられなかった原因はペトロの弱さです。しかし、ペトロは必死に主イエスに答えようとしていたのは主イエスとペトロのこの三度のやりとりでわかります。ですから、主イエスがペトロに求める愛をアガペーの愛からフィロの愛へと低くしたのです。いわば主イエスが弱いペトロに歩み寄ったのです。さらに、主イエスはペトロに「わたしの小羊を飼いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」、「わたしの羊を飼いなさい」と言われています。(15節、16節、17節)羊を飼う、もしくは羊の世話をするということは伝道・牧会をするということです。主イエスは人々を導く大牧者です。その方からペトロに「羊を飼いなさい」といわれた事はペトロに対して人々を導き、伝道、牧会せよと言った事だと解釈されます。だとするならば、主イエスがペトロを見捨て、いつまでも非難なさっているわけではないのです。
ペトロは主イエスを見捨ててしまうという大変な過ちをしてしまいました。ペトロはその事に向き合わなければならなかったのです。しかし、その時彼は一人ではなかった。主イエスが共にいたのです。この三度の主の問いかけはペトロにとって辛いことでしたが、自分が裏切った主が非難するためでなく、そばにいてくれた。その事はペトロの慰めになったことでしょう。私達も多くの罪を犯しますし、その事に真摯に向き合わなくてはならない時があります。その時は辛く、悔い改めが必要ですが、主が共に居られるということを忘れないようにしましょう。
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