「イエスの洗礼」
2020年12月27日 降誕節第1主日礼拝
説教題:「イエスの洗礼」
聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書 3章13-17節(4㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
なにか物事を始めるためには準備が必要です。皆さんは本教会の会堂を建て替えるために様々な準備、例えば建築会社や関係団体との打ち合わせをしたと思います。私が本教会に着任してからも皆様とともに様々な準備をしてきました。礼拝、役員会、牧師就任式、献堂式、召天者記念会、クリスマスなどを私は思い浮かべますし、皆さんもそうではないかと思います。主イエス・キリストはこの世にご降誕いたしましたが、何のためにこの世にお生まれになったのでしょうか?皆さんは多分こう答えることでしょう。私たちの罪を贖うためです。主イエス・キリストは十字架で死に、その犠牲によって私たちの罪が贖われた。そして、私たち、キリスト者はその事を信じる信仰によって救われるという事です。確かにこの事は間違いではなく、主イエスがこの地上に来られた究極の目的ではあるのですが、直近の目的ではないのです。主イエスは十字架での死の前に成すべき事がありました。それは主イエスのこの地上での伝道です。そして、伝道の準備の一つとして本日の聖書箇所にある洗礼があると考えられるのです。
マタイ3章13節はイエスの登場をこう語ります。「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。」同じ3章の1節から12節まで洗礼者ヨハネの事を語っています。洗礼者ヨハネは主に先立つ者で、3節に書かれているように預言者イザヤによって預言された「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」という荒れ野で叫ぶ声です。そうして、洗礼者ヨハネは人々を悔い改めへと導き、彼らに洗礼を授けていました。いわば、洗礼者ヨハネは主イエスの伝道の準備をしていたという事です。そういう状況で主イエスはこの洗礼者ヨハネから洗礼を受けるために彼の所へ来ました。
ですが、洗礼者ヨハネは主イエスが彼から洗礼を受けることを思いとどまらせようとしました。14節で彼は主イエスにこう言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」さらに、11節で彼はこう言いました。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
彼の言った正にその人物が彼の前に現れたのですから、彼が主イエスに、彼から洗礼を受けることを思いとどまらせようとするのは無理もないことだと思います。そもそも、洗礼は人々を罪の悔い改めに導くために行われるのであり、主イエスは罪を犯していないので洗礼を受ける理由はないのです。
しかし、主イエスは15節でこう言いました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」この主イエスの言葉を受けて洗礼者ヨハネは主イエスに洗礼を授けました。旧約聖書時代、人が神の前で正しいとされるのは律法を守ることでした。しかし、新約聖書時代に神は洗礼者ヨハネを遣わして、人々を悔い改めに導き、彼によって洗礼を受けさせました。人が神の前に正しいとされるのはこの洗礼によるものになったのです。いわば、この洗礼は神のご計画に基づいたものと言えます。もちろん、主イエスは神の御子であるのですが、人でもありましたので、人として、一ユダヤ人として、この神が定めた洗礼を受けたのだと考えます。ここに主イエスの父なる神に対する従順とへりくだりを見ます。フィリピの信徒への手紙2章6節から8節でパウロはこう語りました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
この主イエスの父なる神を敬う態度、従順、そしてへりくだりは神から認められました。それが16節から17節に書かれていることです。16節では主イエスは天が開け、神の霊が鳩のように降ってくるのを見、17節では「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う天の声が聞こえたという事です。
この後、主イエスは伝道を始めるのですが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けるという事が彼の伝道にとって重要な意味を持っていたという事、そして伝道のための準備の一つであったという事は間違いありません。そして、その準備は父なる神が預言者を通して、洗礼者ヨハネを通して備えたものです。主イエスは彼の父なる神への従順とへりくだりによってこの準備を整えました。主イエスと比べるのはおこがましいかも知れませんが、私もこの講壇に立つために準備をしてきました。私はナザレン教会ではない教会に通っていましたが、1年間ナザレンの下北沢教会に通いながら、聴講生としてナザレン神学校に通いました。その後ナザレン神学校に正規の神学生として入学し、目黒教会で奉仕しつつ、無事卒業することが出来、今こうしてこの講壇に立っています。この期間は私の伝道の準備期間であり、この事は必要なことであったと考えています。そしてこれは神のご計画に沿ったものであると確信しております。主イエスもこの洗礼が神のご計画であり、彼の伝道にとって必要なことであることを確信していたのではないかと思います。コロナ禍で先が見えない時代ですが、私たちにはやるべき事があります。今年1年もやるべき事がありましたし、その事のために準備をし、着実に実行してきました。来年もまた、私たちにはやるべき事があり、そのための準備をし、それを着実に実行していきたいと思います。しかし、大切なことはそのやるべき事が正しい事、すなわち主の御心にかなう事であるかどうかという事です。その事を見極める目を私たちに与えて頂けるよう神に祈ろうではありませんか。主イエスのように従順やへりくだりを与えて頂けるよう祈ろうではありませんか。
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