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「イエスの洗礼」

2023年1月8日 公現後第1主日

説教題:「イエスの洗礼」

聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書 3章13節-17節(4㌻) 

説教者:伊豆 聖牧師


 何事にも始まりがありますし、何かを記念する行事というものがあります。主イエス・キリストが御降誕された日、地上での人生が始まった日はクリスマスですが、幸いにも昨年の12月25日は日曜日でしたので、私たちは主日礼拝でこの事を記念し、お祝いいたしました。また今年の1月1日は2023年、令和5年の始まりであり、特別な日です。そしてこれも幸いなことに、その日は日曜日でしたので、主日礼拝を行うことができました。感謝です。


 さて本日は何の日かというと主イエス・キリストの公現(こうげん)後第1主日なのです。週報に書いておくべきでしたね。公現(こうげん)とはエピファニーとも呼ばれるのですが、主イエス・キリストが公(おおやけ)に現れ、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた日です。それは1月6日になります。私たちはクリスマス、元日、イースター、ペンテコステという日は覚えていて、重要だと考えるのですが、どうもこの日はあまりよく覚えていない、もしくは重要だと考えていないふしがあるようです。実際この日をあまり重要視していない教会も多いのです。

しかし、私は重要だと考えます。それは私たちのキリスト者としての人生を振り返ってみるとお分かりになると思うのです。私たちはなにかのきっかけがあって教会に導かれました。そして教会に何年かあるいは何十年か通われるのですが、そうした中で一つの重要な決断をするのです。それが洗礼を受けるか受けないかということです。もちろん、受けないでそのまま通われている方もおりますし、その人その人の決断があります。そしてその人が受けたいと思っても、それだけで受けられるものでもないのです。しかし、洗礼を受けるという事がキリスト者、信仰者としての人生を始める一歩だと私は考えます。


 本日の洗礼者ヨハネを例にあげてみましょう。主イエスがヨハネの所に来るまで、ヨハネは多くの人々に洗礼を授けてきました。彼が誕生する前に天使ガブリエルが「主に先立って行き、人々を悔い改めに導く。」という預言を彼の父ザカリアにしました。

(ルカによる福音書1章13節から17節)

そして、実際に彼がそうしてきたということが本日の聖書箇所の前の箇所マタイによる福音書3章1節から12節に書かれています。

少し話は飛ぶのですが、ペンテコステの日に何が起こったのかご存知でしょうか?聖霊が人々の上に降り、彼らが異言(いげん)を話し、主の御名をほめたたえたということですね。ですが、それだけでしょうか?その後にペトロの説教があり、悔い改めた人々はどうしたでしょうか?主イエス・キリストの御名による洗礼を受けたのですよね。その数は三千人ほどだったということです。この事は使徒言行録2章1節から42節に書かれています。カイサリアにコルネリウスという信仰心に厚い人物がおり、このコルネリウスの一家も主を信じていました。彼は幻でヤッファにいるペトロを招きなさいというお告げを天使から聞き、人をやってペトロを招きました。ペトロがコルネリウスの所に来て、福音を述べ伝えると、彼らが異邦人にも関わらず聖霊が彼らの上に降り、彼らは異言(いげん)を話した。それを見たペトロは「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言い、主イエス・キリストの御名によって洗礼を授けました。

(使徒言行録10章1節から47節)

主の天使がフィリポに馬車の所に行きなさいと言われました。そこではエチオピアの宦官がイザヤ書を読んでいたのですが、フィリポは彼に「読んでいることがわかりますか」と声をかけました。そして彼は「わからない」と言い、馬車に一緒に乗って教えてほしいとフィリポに頼みました。そしてフィリポはここから福音を告げ知らせました。水がある所に来た時、この宦官はフィリポに洗礼を授けてくれるよう頼み、フィリポは洗礼を授けました。

(使徒言行録8章26節から39節)


 少し長くなってしまいましたが、これらの事を踏まえれば、洗礼がいかに大切なものかということと、信仰者として始める第一歩かということがお分かりかと思います。

 さて、洗礼者ヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けている時、主イエスが彼のもとに洗礼を受けるために来られました。

洗礼者ヨハネは主イエスを思いとどまらせようとします。

「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

(マタイによる福音書3章14節)

私たちは真に信仰生活を始めるためには洗礼を受けなければなりません。つまり、罪を悔い改め、主を受け入れなければならないのですね。

ですが、主イエス・キリストは罪を犯していなかった。神の御子なわけです。ですから、悔い改めの洗礼を受ける必要はなかったわけです。ヨハネ自身がこう言っています。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイによる福音書3章11節)

洗礼者ヨハネより高い地位にあり聖霊と火で洗礼を授けられる方が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるなんてとんでもないというわけです。ですから洗礼者ヨハネがこのように言ったわけです。

ですが、主イエスはこのように仰いました。

「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」

(マタイによる福音書3章15節)


 確かに主イエスは罪を犯されませんでしたので、そういう意味で洗礼者ヨハネから洗礼を受ける必要はありませんでした。しかし、主イエスは私たち人が経験する事を経験し、私たちの罪を贖うためにあえて人の身になってこの地上に御降誕されたのです。そして水での洗礼を受けることも父なる神のご計画にあったのだと考えます。そして主イエスはこの父なる神のご計画に従ったのだと考えます。これがへりくだりです。この洗礼の後、サタンによって試されますが、神の御子であれば、この試しすら受ける必要はないということになります。ですが、父なる神は主イエスを試しに導き、主イエスはこの試しを受け入れました。ここに従順さとへりくだりがあるのです。


 洗礼が終わり、主イエスが水の中から上がられると聖霊が主イエスの上に降ってきたという事、そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声は主イエスが神の御子であり、主イエスの行動が父なる神に受け入れられたという事を表しています。

 洗礼を受けるということは私たちの生き方を方向転換し、私たちの人生の主役を私達自身から主イエスに明け渡すことです。そしてそこがスタートラインです。私たちの主イエスさえ御子であるにも関わらずへりくだり父なる神にお従いしたのです。私たちが出来ないことがあるでしょうか?

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