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「イエスの洗礼」

2024年1月7日 公現後第1主日 

説教題:「イエスの洗礼」

聖書 : マタイによる福音書 3章13節-17節(4㌻)​​

説教者:伊豆 聖牧師


 皆さんあけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いいたします。本来であれば、一年の始めですから希望に満ちたスタートを切りたいのですが、残念なことに不幸な事が起きてしまいました。皆さんもご存知だとは思いますが、能登半島地震と羽田空港での飛行機事故です。亡くなられた方々の上に主の慰めがあたえられますように。そして被害に遭われた方々、現地で救援活動やサポート活動に従事されている方々のためにお祈りします。

 さて本日は公現後第1主日礼拝です。公現をしてから第1日目の主日礼拝ということです。公現とは何でしょうか?もう去年の事ですが私達はクリスマス礼拝をいたしました。クリスマスというのは主イエス・キリストが御降誕された日です。キリスト者であれば知っています。キリスト者でない人でも知っている人もいます。

もちろん、知らない人もいらっしゃいますが。

公現とは読んで字の如く、公に現れることです。つまり、主イエスが公にご自身を現されたということです。それは昨日なのです。

ですから、本日は公現後第1主日礼拝となるのです。では何をもって主イエスが公にご自身を現されたかというとバプテスマのヨハネから洗礼を受けることなのです。

 以前もお話したかと思いますが、キリスト者としての人生がスタートするのは洗礼を受けてからなのです。それは信仰の創設者である私達の主イエス・キリストであっても変わらないということですね。何をするにしても準備とスタートは重要なことです。

私は正月に実家に戻ったのですが、箱根駅伝を見ました。普段はあまりテレビを見ないのですが、各大学のランナーたちの素晴らしい走りを拝見しました。そして各大学のスタッフの方たちの働き、そして誘導する白バイの人達の働きも拝見しました。

ランナーはもちろんなのですが、他の人達もこの箱根駅伝のために準備をしてきたということです。また私達は去年クリスマス礼拝をいたしましたが、アドベントも経験しました。アドベントはクリスマスで主イエス・キリストの御降誕を静かに待ち望む準備の時であると申し上げました。そう準備なのです。主イエスのご公現、主イエスの洗礼もまたこれからの地上での宣教のご準備であり、スタートであったということです。

 さて、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けることが主イエスの宣教のご準備であり、スタートであったということを申し上げましたが、もう少し違う角度から見てみましょう。

本日の聖書箇所の少し前、マタイによる福音書3章1節から12節にかけてバプテスマのヨハネの事が書かれています。彼が荒野で宣教し、洗礼を授けている場面ですね。彼はこう言っていますね。

「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」

(マタイによる福音書3章11節)

さらにこのバプテスマのヨハネの宣教と洗礼はこの時代よりもっと前の旧約聖書時代の預言者イザヤの言葉によって預言されています。この事は3節の「これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』』」で示されています。

 つまり、主イエスが来られる前から神は預言者イザヤ、バプテスマのヨハネによってご準備をされていたということです。

以前私はルカによる福音書でバプテスマのヨハネの誕生の物語を説教させていただきました。天使ガブリエルによってヨハネの誕生が告げられた場面です。覚えておられる方もいらっしゃるかと思います。このことからもわかるように神はご計画にしたがって準備されていたということです。

 さて、主イエスが洗礼を受けるためにバプテスマのヨハネの所に来られましたが、バプテスマのヨハネはそれを止めようとします。

確かに主イエスが洗礼を受けるということは神のご計画でありました。ですから、バプテスマのヨハネは神のご計画に従わなければいけないのです。ですが、彼はそれを押し留めようとします。

なぜなら、上位の者が下位の者に洗礼を授けるものです。そしてヨハネは11節で自分が言った方が主イエスであるという確信を持っていました。ですから、押し留めようとしました。しかし、主イエスはヨハネの申し出を断ります。

「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(15節)

「正しいこと」とは何でしょうか?それは父なる神の御心であり、ご計画です。だから主イエスは従ったのです。ここに主イエスの父なる神への従順があります。確かに主イエスは神の御子ですが、だからといって傲慢はありませんでした。これは十字架での死まで続いたのです。主イエスが十字架を受け入れる時にこのように仰いました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイによる福音書26章39節)と仰いました。

だからこそ、パウロはこの様に言っています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」

(フィリピの信徒への手紙2:6-9)

だからこそ主イエスが洗礼をお受けになられた時、神の霊が下り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえたのです。私達は準備、スタートは大丈夫でしょうか?そして主のように神に従順でしょうか?

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