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「イサクの犠牲」

2023年2月19日 降誕節第9主日

説教題:「イサクの犠牲」

聖書 : 旧約聖書 創世記 22章1節-18節(31㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 私達は人生を生きる上で様々な事を選択します。私達の選択が良い事もあるし、悪い事もあります。その選択が良い事であれ、悪い事であれ、私達はその結果に対して責任を取らなければなりません。例えば私の場合であれば、もう少し高校時代に勉強していれば、日本の大学に進学して卒業し、どこかの会社に入り、働いていたのにと思うこともあります。

 ですが、私は数年の浪人生活をした後、私の両親の長年の知り合い、私の長年の知り合いでもあるのですが、その方の伝手(つて)である教会に導かれました。

 私は以前、別の教会に通っていたのですが、その頃は教会には通っておりませんでした。私がその知り合いの方に導かれた教会はNPO法人、非営利団体を経営しておりました。その団体は日本の高校を卒業する学生をアメリカのクリスチャンカレッジに留学させる事業を行っていました。

 私はその知り合いに導かれた教会に通い、洗礼を受け、アメリカのクリスチャンカレッジへの留学の準備をいたしまして、そのNPO法人を通じて留学することが出来ました。

 つまり、その知り合いの方によって私は教会に戻され、さらにアメリカのクリスチャンカレッジに留学するという、それからの私の人生が開かれたのです。この事は私の今の牧師人生の基礎を作ったといっても過言ではありません。私はその方に今でも感謝していますし、両親にも感謝しております。ですが、最も感謝しているのは私をそのように教会に戻していただいた主に感謝しております。私が今日あるのは主の導きと私のその教会に通おうという決断だからです。

 さて本日の聖書個所です。2節で神はアブラハムにこの様に命じられました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 アブラハムのこれまでの人生は神に従ってきたものでした。彼は神に従い、生まれ故郷を離れ、神が示すどことも知らない地へと旅立ち、そこに住みました。行き先もわからず、ただ神が命じたから、それに従うというのは並大抵の事ではありません。

皆さんは想像できるのでしょうか?何の予備知識も頼る人もいないで見知らぬ土地に行き住むということがどういうことか?今のようにインターネットを使って調べることも出来ません。

とても不安です。比べることは出来ないかもしれませんが、私が初めてアメリカに留学した時と同じだったかもしれません。田舎暮らしというのが一昔前から流行していると聞いています。

喧騒の都会を離れて、田舎で静かに暮すということですが、実際に田舎暮らしを選んだ人々は少なからず受け入れてもらえるだろうかという不安を持って移住し、中にはその田舎暮らしに馴染めず、都会に戻ってくるということもあるようです。アブラハムにとって初めての土地、初めての人々、初めての慣習、それら全てが彼を不安にさせたかもしれません。しかし彼は神を信じ、従ってきたのです。これこそが彼の信仰でした。

 ですが、本日の聖書個所は神から彼への新たなる厳しい試練でした。神はアブラハムに「子イサクを焼き尽くす犠牲としてささげなさい。」と仰った。つまり「自分の息子を殺しなさい。」とアブラハムは命じられたのです。

しかもイサクを表す文言に注目してください。「あなたの愛する独り子」です。なんと無慈悲なと思われる方もいるでしょう。

イサクはアブラハムが年老いてから妻サラとの間にできた息子です。それまでアブラハムとサラは子供に恵まれず、彼はダマスコのエリエゼルという彼の信頼する僕を後継者にと考えており、またハガルという女性との間にイシュマエルという息子ができてからはこのイシュマエルを後継者に考えていたようです。ですが、神はこのアブラハムとサラとの間に息子ができるということをアブラハムにお告げになられ、その後三人の御使いを通してでもその事を彼すなわちアブラハムにお告げになられました。アブラハムもサラも無理だと思って笑ったのですが、その後、サラはイサクを産んだのです。そしてアブラハムの子孫は祝福され多くなるという神からの約束があったのです。独り子であるイサクが死んでしまったら、彼の子孫はなくなり、この神の約束も成就されなくなるのです。

 この無慈悲ともとれる神のご命令にアブラハムは従ったのです。

何か彼の苦悩のようなものを感じ取ることが出来ればよいのですが、2節以降、彼の苦悩を表す具体的な文言は出てきません。唯一、それらしい文言が出てくるのは7節の息子イサクからアブラハムへの問い「…焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」に対する8節のアブラハムの答えです。

「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」です。もうアブラハムは神にイサクを献げるよう命じられていますので、これはアブラハムのイサクに対しての嘘なのです。

ですがもしかすると彼は苦悩の中でそのように、つまり神が備えてくださるように願っていたのかもしれません。

しかし、見つからず、アブラハムはイサクを殺そうとした時、それを押し止める神の声が天から聞こえました。彼が見ると一匹の雄羊がおり、それをイサクの代わりに献げました。そして神はアブラハムの子孫の繁栄とさらに彼の子孫の繁栄だけでなく、彼の子孫によって地上の人々が祝福されると宣言されました。 

神がアブラハムの信仰をテストするためにこの事をしたのは神がアブラハムに仰った事を見れば明らかです。

「…あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(12節)

「…あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、」(16節)

「…あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(18節)

神はこのように私達の信仰を試されます。そしてそれはともすれば私達の目には理不尽に見えます。例えば義人ヨブの場合は神が直接試練をお与えになられたわけではありませんが、ヨブが神に従って生きていたにも関わらず、神はサタンがヨブを責め苛む事をお許しになられました。彼は財産を奪われ、健康を奪われ、家族から疎まれて、恥辱にまみれてしまいました。最後これらは回復されましたが。

 神からのこういった苦難を伴ったテストというものは嫌なものです。出来れば避けたいのです。しかし、神はこれらを私達にお与えになられます。その理由はやはり私達の信仰がそれによって成長するからなのでしょう。ヨブはこの苦難と神との対話を通して神の御心を知り、彼の信仰は成長しました。アブラハムもまたこの試練を乗り越え、彼の信仰が本物であることを証明したのです。

もう何度も説教でご紹介していますが、パウロはローマの信徒への手紙5章3節から4節でこのように述べています。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」

 パウロはダマスコの途上で光に打たれ、キリストに出会い、宣教者となってから同胞から、異邦人から、多くの苦難を受け続けてきました。それはⅡコリントの信徒への手紙11章23節から28節に書かれています。もし、私がこんな苦難ばっかり受けたらいい加減にしてほしいと神様に愚痴の1つ、いや1ではきかないですね。10や20は言ってしまったことでしょう。ですがこの様な苦難を経験したパウロは先程のようにローマの信徒への手紙を書いたのです。ヘブライ人への手紙の筆者はこのアブラハムの信仰についてこの様に述べています。「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」

(ヘブライ人への手紙11章17節から19節)

たぶん、皆さんはこのように思われているかもしれませんね。それはパウロやアブラハムといった人物だから出来た事であって私達に出来ることじゃないですよ。ですが、神はすべてのキリスト者にその人なりの試練をお与えになられます。そして私達はその試練を通ることによって信仰的に練られていくと考えます。

もちろんキリスト者でなくても試練は来ますし、失敗も経験するでしょう。そして試練や失敗を経験してきた人が人間として魅力的だということはよく言われています。それはその人がその経験を糧としているからではないでしょうか。この事は先程のパウロが述べたローマの信徒への手紙5章3節から4節に少し通じる所がありますね。もちろんパウロは信仰の視点からそう言っているのですが。

このように試練は私達にやってくるのです。ですからその時にキリスト者として神の導きを感じ決断をしなければなりません。

神の導きによる試練を拒否するという決断をすることも出来るのでしょう。ですが、私達はその結果を刈り取らなければなりません。

ですから、アブラハムの信仰に学びましょう。アブラハムは独り子を神のための犠牲に献げようとしました。もちろん実際には犠牲に献げませんでしたが。これは主イエスの十字架の雛形です。父なる神は主イエスを犠牲にすることによって人類の罪を贖ってくださったのです。その事を覚え、感謝し、私達もこれから神から与えられる試練を受け入れようではありませんか。神は私達が耐えられない試練をお与えになりません。そして神は逃れの道も用意しています。アブラハムがイサクを献げようとした時に何が起こりましたか?一匹の雄羊が木の茂みに角を取られていました。そして彼はその雄羊をイサクの代わりに犠牲に献げたのです。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けました。

主は備えてくださいます。

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