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「エジプトへの退避」

2021年12月26日 降誕節第1主日

説教題:「エジプトへの退避」

聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書 2章13-23節(2㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 主イェス・キリストの誕生は私達、キリスト者にとって本当に喜ばしい事です。なぜなら、主イェスによる十字架上の死によって私達は罪から解放されたからです。そして、実際その場に来た羊飼い達と占星術の学者たちにとっても喜ばしい事であり、祝福でありました。しかし、すべての人々が主イェス・キリストの誕生を喜んだわけではありませんでした。彼らは不安に思い、あまつさえ殺そうとした人間もいたのです。それがその当時イスラエルとユダヤ人達を支配していたヘロデ王でした。彼はユダヤ人ではありませんでしたが、ローマ帝国によってその地の支配を認められていました。なぜ、彼は主イェスを殺そうとしたのでしょうか?それは占星術の学者達が彼の元を訪れ、発した言葉のせいでした。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイによる福音書2章2節)


「ユダヤ人の王だって、この者たちは何を言っているのだ。ユダヤ人の王とはお前たちの目の前にいる私の事だ。」とこのヘロデが考えたのでしょう。しかし、彼はこの占星術の学者達の発言を無視も出来ません。もしかすると、誰かが自分の王位を覆すかもしれないと考えたのでしょう。だからこそ、3節に書かれているように不安に思ったのです。彼はこの学者達を集めて、星の現れた時期を確かめ、彼らに主イェスを見つけたら、知らせてほしいと言いました。彼は主イェスを拝むため、知らせてほしいと言ったのですが、本当は殺すためでした。自分がこのイスラエルの王であるにもかかわらず、イスラエルの王として自分の地位を脅かす存在など生かしておくことはないと判断したのです。彼は猜疑心が強く、権力に固執する人物でした。自分に対して謀反を企てているとして、自分の息子達を含む親族を多く手にかけたほどの人物でしたので、自分の地位を脅かす他人の幼子を殺すことに何の痛痒(つうよう)も躊躇(ちゅうちょ)もなかったことでしょう。


 権力は人を醜くさせ、人に罪を犯させます。これは時代を超えて通用します。イスラエルの最初の王はサウルという若者でした。彼は民の王を求める声に応じて神に選ばれた王であったのですが、彼は神の御心に逆らい、王位から退けられ、やがてダビデが王として神に選ばれます。ダビデはこのサウル王に仕えていたのですが、サウル王は神から退けられ、ダビデの武勲が上がり、民がダビデを支持するに従って彼に嫉妬し、彼を殺そうとしました。


自分の地位、権力に固執し、そのためなら人を殺すことを厭(いと)わないという意味でヘロデとサウルは似ていると思いませんか?


そして現代の日本社会でも同じようなことが政治の世界で起こっている気がします。もちろん、殺すとか殺さないといったひどいことでないにせよ、権力闘争というのはあります。さらに言うならば、そのような大きな政治という世界だけでなく、私達の周りの小さな社会、例えば、学校、会社、ご近所、ママ友といったコミュニティでもこの様なことが起こっているかもしれないのです。それは人を醜くさせ、罪を犯させます。確かにヘロデやサウルが行った行為が今の私達の周りで起こっているというわけではありません。


しかし私が問題視しているのは彼らの心のあり方なのです。それは人を醜くし、神の前に正しくなく、それは罪なのです。


 ヘロデの話に戻ります。ヘロデは殺そうと主イェスを探していました。そして、占星術の学者達は彼を拝もうとして主イェスを探していました。ここに大きな分岐点があります。私達はどちらの側につくかということです。ヘロデは自分の地位に固執し、主イェスを殺そうとしました。自分を愛し(悪い意味で)、この世を愛するという罪です。主イェスを十字架につけたファリサイ派や律法学者達と同じです。ヘロデはこの世を表しています。他方、占星術の学者達は異邦人ながら真の神を礼拝しようとして、主イェスを探していました。多分皆さんは「私達はヘロデのようなひどい人物ではない。」と思われているかもしれません。確かに私もそう思います。しかし、先程私が言ったと思うのですが、その心の有り様なのです。私達はどちらかを選ばなければならないのです。この世か主イェスかを選ばなければならないのです。


 さて、占星術の学者達は天使のお告げを受けて別の道を通って自分たちの国に帰っていき、主の天使がヨセフに現れて、ヘロデが殺そうと狙っているのでマリアと息子を連れてエジプトに逃れなさいと彼に告げました。彼らはすぐ、エジプトへと出立し、ヘロデが死ぬまでその地に留まったと13節から15節に書かれています。


 その後、学者達に騙されたとわかったヘロデはベツレヘムとその周囲にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺しました。これだけで、このヘロデという人物がいかに残虐かおわかりかと思います。それと同時に主イェスの誕生が世間一般でいわれているように恵みに満ち溢れたものだけではなく、血なまぐさいものであったということもわかります。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」(マタイによる福音書2章18節)


 ヘロデが死に、天使がエジプトにいたヨセフにその事を知らせ、イスラエルに戻るよう告げ、彼はマリアと主イェスを連れて戻ってきたが、ヘロデの息子のアルケラオがユダヤを支配しているということを聞いたので、周辺のガリラヤ地方のナザレという町に移住した。


 神はご計画に従って行動されます。例えば本日の聖書箇所でもそれがわかります。15節には「『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」とありますし、17節には「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とあり18節の実際の預言の言葉へと続きますし、23節には「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」と書かれています。15節は旧約聖書ホセア書11章1節「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」を踏襲していますし、23節の預言、特に「ナザレ」という言葉は旧約聖書に出てきていないように見えるのですが、それは日本語の聖書を読んでいるからです。イザヤ書11章1節に「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」とあります。この「若枝」という言葉が「メシア」を意味しますし、このヘブライ語が「ナザレ」という言葉に近いと考えられています。そして、この「メシア」を表す「若枝」は同じイザヤ書11章10節、そしてエレミヤ書23章5節、33章15節、ゼカリヤ書3章8節、6章12節にもあります。


 すこし、長くなってしまいましたが、何が言いたいかというと、本日の聖書箇所の要所要所で旧約聖書の預言が入ってきていて、その事は神が預言者を通して語られたとおり、メシアである主イェスを私達の救いのために送られてきたということです。


私達はこのご計画に従って行動される真の神に従うかそれとも世に従うかを選ばなければならないのです。どちらを選ばれますか?

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