「エチオピア人の救い」
2021年6月20日 聖霊降臨節第5主日礼拝 (父の日) 説教題:「エチオピア人の救い」 聖書 : 新約聖書 使徒言行録 8章26-40節 (228-229㌻) 説教者:伊豆 聖牧師
先週は「花の日」、「子供の日」の礼拝でしたが、本日は「父の日」礼拝です。父の日とはお父さんを敬う日ですが、どのように生まれたのかご存知でしょうか?1909年、アメリカのワシントン州で子供を6人も育て上げた父親がいたということです。6人の長女のソノラ・スマート・ドットという方が教会の牧師に母の日と同様に父の日のための礼拝をしてほしいと願って始まったそうです。いまここに見えられている方々のお父様はもう既に亡くなられているかもしれません。しかし、私達が今ここにいるのは私達の母親のおかげであると同時に父親という存在があったからでもあります。ですので、父親に感謝しましょう。そして、なによりも私達にはこの世の父親、母親だけでなく、父なる神がいます。そして、父なる神はその長子である主イエス・キリストをこの世に遣わしました。主イエスは私達の罪を十字架の上での死という形で贖ってくださいました。私達はこの世での父、母だけでなく、天の父とその御子主イエスに心から感謝いたします。
さて、本日の聖書箇所の使徒言行録8章26節です。「主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である。」
主の天使がフィリポにエルサレムからガザへ下る道に行けと言ったということですが、このフィリポという人物はどういう人だったのでしょうか?彼の名前が出てくるのが同じ使徒言行録6章5節です。ギリシャ語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して、彼らの仲間のやもめたちが食事の分配の事でないがしろにされているというクレームを言ったということです。使徒たちが集まり、この事に関しての処理に当たるために選ばれた7人の人物 ステファノ、フィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオの中の一人です。
その後、この中の一人であるステファノが民衆、長老、律法学者達に捕らえられ、裁判にかけられ、殺されました。このステファノの殺害を皮切りにエルサレムの教会に対して迫害が起こり、使徒たちの他はユダヤとサマリアの地方に散らされたということです。そして、フィリポもまたサマリアの地方に散らされましたが、そこで彼は福音伝道をしていきました。彼のサマリアでの福音伝道は使徒言行録8章4節から8節に書かれています。
このような状況下で「主の天使」がフィリポに「エルサレムからガザへ下る道」へ行けと言ったのです。では何のためにこの御使いはフィリポをそのような道に導いたのかというと27節から29節に書かれているように、フィリポを「エチオピア人の宦官」に会わせるためであったということがわかります。また、この宦官は「エチオピアの女王の高官で、女王の全財産の管理をしていた」ということから、彼は地位と財産を持っていたということがわかります。そして「エルサレムに礼拝に来て帰る途中であった。預言者イザヤの書を朗読していた。」ということから彼はユダヤ人ではない異邦人であるにもかかわらず、エルサレムに来てまで礼拝するほど信心深く、預言者イザヤの書を読めるほど教育を受けていたということです。
神の霊はフィリポにこの馬車に乗っている宦官と共に行けと言うのです。フィリポがこの宦官の乗っている馬車に近寄ると彼が預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と彼に声をかけます。このフィリポの質問に対して「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言って彼はフィリポに馬車に乗り、そばに座って教えてほしいと頼みます。30節から31節に書かれています。この箇所からこのエチオピア人の人となりがうかがえます。彼は素直にフィリポの質問にわからないと答えたのです。彼は地位、財産、教育もある人間です。普通そのような人間は知らなくても知っていると答えるか、もしくはフィリポのような知らない人間など相手にもせず、そのまま馬車に乗って行ってしまってもおかしくないのではないでしょうか。しかし、彼は驚くべき素直さをもってフィリポを馬車に迎え入れ、彼の教えを請いました。この素直さこそが彼が救われる上で大切ではなかったのではないでしょうか?そして、彼には「求め」があったのです。今自分が読んでいることを理解したい、神様の事をもっと知りたいという「求め」があったのです。「素直さ」と「求め」は人が救われる上で重要なことです。先週の「子供の日」の説教で私は主イエスが子供のように素直でないと天の国に入ることは出来ないと言われたと述べました。ファリサイ派、律法学者のような地位、名誉、金銭に執着している人は天の国に入れないということです。また人は「求め」がなければ救われません。例えば主イエスに病を癒やされ、悪霊を追い出して頂いた人たちはどういう気持ちだったでしょうか?彼らもしくは彼らの近親者は必死で主イエスに頼んだのです。カナンの女性は悪霊に取り憑かれた娘を助けるため主イエスに何度も助けを求め、主イエスに「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と拒絶されても、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と答え、主イエスに彼女の信仰を示し、娘は癒やされました。彼女の「求め」が主イエスを驚かすほどの「信仰」へと繋がった瞬間です。このエチオピア人には救いへと繋がる「素直さ」と「求め」があったのです。そして「信仰」があったのです。だからこそ、フィリポは彼が読んでいたイザヤ書から福音を告げ知らせることが出来たのです。
その後、このエチオピア人は驚くべきことを言いました。洗礼をフィリポから受けたいというのです。36節にこう書かれています。「道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。』」この人の福音を受け入れる素直さが書かれています。そして、フィリポは洗礼を彼に授けました。
ここで大切な事がいくつかあります。まず、彼の福音を受け入れる素直さ、求め、そして信仰です。私達にそれらはあるでしょうか?そして、神による導きです。26節では「主の天使がフィリポにエルサレムからガザへ下る道に行け」と言ったと書かれています。29節では「霊がフィリポに馬車に行けと指示している」と書かれています。39節では洗礼が終わった後、「主の霊がフィリポを連れ去った」と書かれています。つまり、このフィリポの福音伝道は人の主導ではなく、神の主導であるということがお分かりになるかと思います。そして、最後に洗礼を受けたこの人物の態度です。それは「喜び」です。39節で「宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。」とあります。
このエチオピア人の宦官の洗礼は新約聖書で初めて異邦人の洗礼の場面として出てきます。彼は異邦人でしたが、神の主導により、福音を受け入れ、洗礼を受けました。彼には福音を受け入れる素直さ、福音を欲している求めと信仰があったのです。そして、福音を受け入れ、洗礼を受けた時、彼を満たしたのは喜びでした。私達も彼のようでありたいと思いますし、今私達がそうでないのなら、彼のようにしてもらえるよう、主に祈ろうではありませんか。
Commentaires