「エッサイの株」
2020年12月6日 待降節第2主日礼拝
説教題:「エッサイの株」
聖書 : 旧約聖書 イザヤ書 11章1-5節(1078㌻)
説教者:伊豆 聖 牧師
みなさんは木の株というものを見たことがあるでしょうか?私はテレビの映像などで見たことがあるのですが、大きく成長した木、例えば樹齢何百年、何千年の木に比べると見劣りします。それはその株が元々の木が切り倒され、残されたものであるからかもしれません。いわば残骸と言うべきもので、衰退や荒廃を表しており、成長と反対の事だからかもしれません。しかし、本日の聖書箇所はこの残骸と言うべき物から成長と言うべき物が生まれてくるという話から始まります。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち」(イザヤ書11:1)とあります。残骸と言うべき株からひとつの芽が芽吹き、その根からひとつの若い枝が育ってくるというなんとも希望を感じさせる話だと思います。
もちろん、これは比喩です。エッサイとは旧約聖書に出てくるダビデ王の父親の名前です。ですので、ダビデの家系からこの新芽が芽吹き、その根から成長してくるような、人々に希望を感じさせるような人物を想像させます。このイザヤ書の預言はメシアを、イエス・キリストを指し示すものと言われています。
では、どうして、神は預言者イザヤを通じてこのような預言をされたのでしょうか?その事を知るためには預言者イザヤが活躍した当時の時代背景と状況を知る必要があります。ユダヤ人の国は北のイスラエル王国と南のユダ王国とに分裂しておりましたが周辺諸国によっていつも脅かされていました。その周辺諸国の中でもとりわけ強大な国はアッシリアでした。そして、北王国はアッシリアに紀元前722年に滅ぼされますが、アッシリアの脅威は南のユダ王国をさいなんでいました。そのような中で、預言者イザヤはユダ王国で活躍しました。イザヤ書1章1節にはこのように書かれています。「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。」北のイスラエル王国はすでにアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国はアッシリアの脅威に怯えていた。そのような状況でイザヤはメシアの到来を預言しているのが本日の聖書箇所です。では、なぜこのようにアッシリアに脅かされる状況になってしまったかと言えば、ユダ王国の住民が主なる神から離れ、偶像礼拝に走り、国内には不正がはびこっていたからです。これは既にアッシリアに滅ぼされたイスラエル王国にも言えることです。なので、ユダ王国はこのような状態つまりアッシリアにおびやかされている状態なのです。だからこそエッサイの株なのです。もしこの国が何の不安もない状態であれば、もう少し良い表現、例えばエッサイの瑞々しい木、またはエッサイの大木などが使われていてもおかしくないのです。しかし、現状ダビデの家系は没落し、国は神から離れ、不正がはびこり、アッシリアにいつ襲われるかわからないという不安に満たされているという状態だったのです。切り株という残骸が残されていたのです。しかし、残されたこの残骸から新芽が芽吹き、その根から若枝が育つ、これがメシアであると預言者イザヤは言っています。そして、このメシアは人々の希望となります。主イエス・キリストはダビデの家系です。その事はマタイ1章6節から16節、ルカ3章23節から32節に書かれています。
さらに、本日の聖書箇所はこのメシアがどういう人物なのかという事を説明していきます。「その上に主の霊がとどまる。知識と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」と2節から3節の前半にあります。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた場面を覚えておられるでしょうか?「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。」とマタイ3章16節にあります。主イエスの上に主の霊すなわち父なる神の霊が降り、とどまったのです。その後の主イエスが伝道活動で大衆に話された言葉そして反対者であるファリサイ派、サドカイ派、律法学者に対する言葉の一つ一つを見てみれば、主イエスがいかに知識と分別があり、思慮と勇気を持ち、父なる神を知っていて、敬っていたかが皆さんはおわかりかと思います。ヨハネ7章16節から18節で主イエスはこう言われています。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」さらに、28節から29節でこのように言われています。「わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
本日の聖書箇所3節の後半部分もまた主イエスを指し示しています。「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。」とありますが、ヨハネ8章15節から16節で主イエスはファリサイ派の人々に対してこう言っています。「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」
さらに、本日の聖書箇所4節の前半部分は「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」とありますが、主イエスがこの地上で伝道活動をしていた時もまた、貧しい人々、取税人、罪人の所に行き、食事を共にし、彼らを癒やされました。さらに、4節の後半部分「その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」とは少々過激な表現ではありますが、これもまた主イエスが反対者であるファリサイ派の人々、サドカイ派の人々、律法学者達と度々論争し、彼らを打ち負かしてきたことを思い出された方もいらっしゃるかと思います。最後の5節に書かれている正義と真実という言葉もまた主イエスを表している表現と言って良いでしょう。
このイザヤの預言を聞いたユダ王国の人々はアッシリアの脅威がメシアによって取り除かれ平和が訪れると信じていたことでしょう。確かにアッシリアの脅威は取り除かれたのですが、彼らの国はやがてバビロニア王国によって滅ぼされ、多くの民が捕囚という憂き目にあいます。やがてバビロニア王国もまたペルシアに滅ぼされ、捕囚されていた人々も以前住んでいた地に帰還することができましたが、自分たちの国を持つということが出来たわけではありませんでした。そして、新約聖書の時代に入りますが、その時もユダヤ人たちはローマ帝国の支配下にありました。預言者イザヤが伝道をしていた時代にアッシリアに脅かされていた時と状況は似ていると思います。そういう不安の状況下にあって人々はメシアを待ち望んでいました。ローマ帝国の支配を取り払うというメシアを待ち望んでいたのです。しかし、そのような人々の期待とは別の形で、預言者イザヤが預言したメシアである主イエス・キリストが誕生いたしました。そして主イエスは父なる神の御心に従ってこの世を生き、私たちの罪の贖いをご自身の十字架の死によってなしてくださいました。アッシリアやローマ帝国の脅威にさらされていたユダヤ人ほどではないのですが、私たちの周りにも不安があります。いまだに新型コロナウィルスの終息が見えず、感染者数が増加しております。しかし、私たちには希望があるのです。エッサイの株から芽吹いた芽、その根から育つ若枝である主イエス・キリストです。その誕生を待ちわびつつ歩んでいこうではありませんか。
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