「エノクとエリヤ」
2024年11月3日 降誕前第8主日 召天者記念日
説教題:「エノクとエリヤ」
聖書 : 創世記 5章24節(7㌻)
列王記下 2章11-15節(578㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日は召天者記念日礼拝です。私達の信仰の先輩たちのことを偲びつつ主を礼拝する日ということです。私達の最も近しい信仰の先輩というとこの浦和教会の信仰の先輩たちのことであると思います。ですので、今私が話している講壇の前の机の上にその方々の写真が置かれています。また浦和教会のアルバムも置かれているのもそのためですね。このようにしてその人達との事を懐かしく思い出し、語らうことは素晴らしいことです。それはこの礼拝後の交わりでしたいと思います。そして今この場で行われている礼拝もまた浦和教会の歴史の一部として語られていると思うと何か感慨深いものを覚えます。
今日という日に最も私たちにとって身近な浦和教会の信仰の先輩たちを偲ぶのは私たちにとって当然なことではあるのですが、少し視野を広げると私達の信仰の先輩たちは浦和教会の信仰の先輩たちだけではないのですね。
例えば、この浦和教会の創始者 関谷 紀美也先生は元々はナザレン教団の先生ではありませんでした。日本キリスト教団別所教会の副牧師をされていて、何人かの信徒の方々とそこを出られてから、ナザレン教団に入られ、日本ナザレン教団浦和キリスト教会の伝道が始まったと聞いております。ということは紀美也先生やその信徒の方々もその別所教会で過ごした思い出というものがあったであろうと想像します。紀美也先生やその信徒の方々を信仰に導いた人々、そして紀美也先生を召命に導いた人がいたのだろうなと想像します。現に今浦和教会に通われている方々の何人かもまた元々浦和教会に通われていた方々ではない方もいらっしゃると思います。私もその一人ではありますが。その方々にとってもちろん、この浦和教会での思い出も大切なものではあると思います。ですが、その前の教会での思い出もまた大切なものであろうと思います。私もそうです。
私は以前ある浦和教会の信者の方と何度かお話をさせていただきましたし、今でもお話をさせていただいてもいます。その方は浦和教会に来られる前は別のナザレン教会に通われていました。そしてその方を指導された先生をとても尊敬されていると仰っていました。その先生が書かれた御本、確か表題が「日々の霊そう」だと思うのですが、その本を貸していただき、読ませていただきました。365日で読み終わる本で日付とその日の聖句とその聖句に対しての先生の短い説教が書かれていました。私にとって有益な本であったと思います。ですから例え以前は浦和教会に来てはいなかったとしても、私も含めてですが、それぞれのキリスト教会での思い出は大切ですし、なにより主に結ばれた教会に通っていたことということは大切なことです。主との繋がりということを私達は受け継いでいるのです。
私は先日宗教改革記念日礼拝の話をしました。ルターの宗教改革ですね。多分皆さんにとっては(私にとってみてもそうかも知れませんが)そんな昔のことを言われてもイマイチ実感がわかないというのが正直な感想ではないでしょうか?浦和教会の信仰の先輩たちとの思い出、もしくは浦和教会に入る前の教会での思い出はわかるのですが、ルターの宗教改革なんてよくわからないでしょう。ですが、今色々なプロテスタントの教派がありますが、ここから始まったということです。そして我がナザレン教団もここから始まったということです。ここにも繋がりがあるのです。
さらにプロテスタントとして別れてしまったカトリック教会とも繋がりがあります。例えば本日行われている召天者記念日礼拝です。カトリック教会にも召天者記念日礼拝があります。というよりもカトリック教会のそれを私達プロテスタントがなぞったという方が正確でしょう。それは聖人の日とカトリックで呼ばれています。ここで言うところの聖人とは2種類あって、殉教者と呼ばれる人と証聖者と呼ばれる人です。殉教者は最後まで主イエスの苦しみを自分の事として信じて、耐え抜いた人に与えられる称号です。また証聖者と呼ばれる人たちは殉教はしていないが、自分の生涯を通じて証をした人です。これらの人たちを聖者と認定し、祝う日をカトリック教会では聖人の日と呼び、毎年11月1日にミサをするということです。私達プロテスタントは聖人信仰(ある特定の人々を聖人とする)をしないで、亡くなったキリスト者を召天者として偲びつつ礼拝するということにしています。それは11月の最初の主日礼拝にするのですが、例えばイースターの日、もしくはその日に近い日にするところもあります。
さて本日の聖書箇所に入ります。まず始めに創世記5章24節です。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」
これだけです。たった一文です。ここに出てくる主人公はエノクです。あまりに短いのでこの主人公の名前が出てくる書か文をすべて述べたいと思います。「イエレドは百六十二歳になったとき、エノクをもうけた。イエレドは、エノクが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。イエレドは九百六十二年生き、そして死んだ。エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5章18節から24節)
ここでわかることは何でしょうか?
エノクという人はイエレドという人の息子なんだな。エノク以外にイエレドには息子と娘がいたんだな。昔の人は長生きだったんだな。エノクはメトシェラという息子をもうけたんだな。メトシェラ以外に息子と娘がいたんだな。彼が生きた(地上に生きた)年月は父親のメトシェラより少ないんだな。彼は神とともに生きたんだな。神に取られていなくなったんだな。
ということでしょうか。何かダイナミックな、例えば冒険話が書かれているわけではありません。ある意味退屈であると言っていいと思います。だから感想もまた面白みがないです。しかし、しょうがないと言えばしょうがないです。これは系図の一部なのですから。創世記5章の1節(実質3節)から32節まではアダムの系図です。系図というものは大抵なにか単純ともうしますか、そのようなものです。もちろん、系図が好きな人もいらっしゃいますのでそう言っていいのかどうかわかりませんが。ですが、大抵、誰々は誰々の子ですということで終わっているのが常ですね。ですが、ここで大切なことが三つあります。
一つは22節と23節に書かれている表現「神と共に歩み」です。神と共に歩むことは大切なことです。私達はキリスト者であり、信仰者です。ですが、私達は主の御心に背くことが多々あります。イスラエルの民を見てみてください。何度主に逆らい罰を受けてきたでしょう。ダビデを見てみてください。彼もまた主に逆らいました。ソロモンを見てみてください。彼もまた晩年主に逆らいました。主イエスの弟子たちを見てみてください。彼らは主イエスが逮捕されたとき逃げ去りました。ですが、このエノクを見てください。彼は主とともに歩んだのです。三百年間もいやそれ以上神と共に歩んだのです。これがどれだけすごいかおわかりになるでしょう。さらにすごいことに主が彼を取られたと書かれていますね。つまり彼は死なずに、死を経験せずに天にあげられたということです。これが二つ目の大切なことです。最後に大切なことはこの系図というものです。聖書には度々系図が出てきます。新約聖書でもマタイによる福音書1章1節から17節にはアブラハムから主イエスの系図が載っていますね。一見すると系図というものは退屈に思えてしまうものですが、これは関わり、繋がりを示しています。この繋がりというものは大切だと言ってきましたね。それなのです。
さて本日の2番目の聖書箇所です。列王記下21章11節からです。11節で預言者エリヤが弟子であるエリシャの目の前で天に上げられる場面が見て取れます。およそ非現実的な光景なのですが、大切なことはこのエリヤもまた前述のエノクのように死なずして天に上げられました。それと同時にエリヤの後継者としてエリシャが選ばれたことが12節以降に書かれている文章でわかるかと思います。例えば14節から15節に書かれている「落ちて来たエリヤの外套を取って、それで水を打ち、『エリヤの神、主はどこにおられますか』と言った。エリシャが水を打つと、水は左右に分かれ、彼は渡ることができた。エリコの預言者の仲間たちは目の前で彼を見て、『エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている』と言い、彼を迎えに行って、その前で地にひれ伏した。」がそれを表していますね。つまりここにもエリヤからエリシャへ、師匠から弟子にという繋がりが見て取れます。
エノクとエリヤは死を経験せずに天に上げられました。それは素晴らしいことだと思います。ですが、さらに素晴らしいことは彼らは主と共に歩んだということです。そして彼らの関係性というのも見て取れます。エノクはアダムの系図の中で、エリヤはエリシャの継承ということで表されます。彼らは旧約聖書時代に生きた人物です。宗教改革、カトリック、プロテスタントといった時代よりも遥か前、主イエス・キリストがこの世に生きていた時代よりもさらに前の時代に生きた人物たちです。ですが、私達は彼らとも繋がりを持っているのです。ヘブライ人への手紙の11章を見てください。ヘブライ人への手紙はキリスト者に宛てた手紙です。その11章は信仰のことが書かれた箇所です。それには旧約聖書時代に生きた人々が惜しげもなく書かれています。そして12章1節は彼らをキリスト・イエスの証人としています。つまりキリスト者と旧約聖書時代に信仰に生きた人々との繋がりがあると言っているのです。ということはどうでしょうか?私達もまた彼らとの繋がりがあると言えるのではないでしょうか?さらに言うならば私達はキリスト・イエスとの繋がりがあるのです。なぜなら、私達はキリスト・イエスが私達の罪の贖いのために十字架にかかり、死なれたが蘇ったということを信じる信仰を持っているからです。だからこそ、私達はこの旧約聖書時代の信仰に生きた証人たち、新約聖書時代に信仰に生きた証人たちとの繋がり、そしてなによりも主イエス・キリストとの繋がりを大切にしなければなりません。
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