「エルサレム入城」
2022年4月10日 受難節第6主日 (受難週主日 棕櫚の主日)
説教題:「エルサレム入城」
聖書 : 新約聖書 マルコによる福音書 11章1-9節(83㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
皆さん、講壇掛けの色が変わったことにお気づきかと思います。紫から赤に変わりました。受難節を表す色として紫色が使われるのですが、今週は受難節の中で受難週と呼ばれる期間です。
今週の金曜日15日に主イエス・キリストは十字架に掛けられました。そして、15日は受難日と呼ばれます。つまり、この受難日を含む受難週は受難節の中でも特に主イエス・キリストのお苦しみを想起しなければならないということです。ですから、講壇掛けの色も紫色から赤色に変わりました。ですから、私達キリスト者は受難節の中でも今週は特に主イエス・キリストのお苦しみを思わなければならないと考えます。
しかし、本日の聖書箇所は私達がこの主イエスのお苦しみを思うにはあまりにもかけ離れた場面です。なぜなら、人々が歓呼して主イエスを迎える場面だからです。まず、主イエスは弟子達二人に村に行き、ご自分がエルサレムにご入城される時に乗られる子ろばを連れてくるよう申し付けます。果たして、弟子達は主イエスに申し付けられたように、子ろばを連れてきます。
注目すべきは実際の主イエスの弟子達に対する申し付けとその後起こった出来事です。
「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
とマルコによる福音書11章2節から3節に書かれています。
「村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。」とあります。
主イエスはどうしてそんなことを知っているのでしょう。
主イエスが全知だからできることではないでしょうか?
主イエスはこのような全知を聖書の様々な場面で示してきました。例えば、主イエスがフィリポとナタナエルを弟子にする場面がヨハネによる福音書1章43節から51節に書かれています。フィリポは主イエスにすぐに従ったのですが、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言って、フィリポと違って、主イエスに対しては否定的な態度を取っていました。
しかし、ナタナエルがフィリポに話しかける前にいちじくの木の下にいたということを言い当てられ、ナタナエルは主イエスを「神の子、イスラエルの王」と呼び、従いました。
サマリアの女の話を皆さんもご存知かと思います。ヨハネによる福音書4章5節から42節にかけて書かれています。主イエスはそこで井戸に水を汲みにきた女性の状態を言い当てました。
「イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」」
(ヨハネによる福音書4章17節から18節)
この主イエスの言葉を受け、このサマリアの女はこう言いました。
「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」
(ヨハネによる福音書4章19節)
さらに、このサマリアの女が町の人々に自分の行なったことを主イエスがすべて言い当てられたということを話し、町の人々は主イエスを「世の救い主」と信じたのです。
ナタナエル、サマリアの女、そして町の人々は主イエスのこの全知の能力を見て主イエスを「神の子、イスラエルの王、世の救い主」と確信したのです。いわば、主イエスのこの全知の能力は神の権威の現れであります。そして、主イエスはこの神の権威の現れである全知を本日の聖書箇所でも用いたのです。
さらに、主イエスの神の権威は全知だけではなかったです。主イエスは「それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」と弟子達に命じました。
当然のことながら、私達は主イエスとその子ろばの持ち主とはなんの関係もないものと思っています。それなのに、勝手にほどいて、それを連れて来なさいとは何という無茶なことを主イエスは弟子達にさせるのだと思ってしまいます。しかし実際、主イエスに命じられたように弟子達がすると、周りの人々は弟子達がその子ろばを連れて行くのを許しました。普通に考えますと、どうなっているのかと首をかしげたくなります。しかし、そうなってしまったのです。「主がお入り用なのです。」という言葉が重要ではないかと思います。主イエスの御言葉には神の権威があるのではないでしょうか?主イエスはすべての主(あるじ)なのです。
すべてを従わせる神の権威があるのです。ですから、周りの人々もそれを許したのではないでしょうか?
主イエスは全知の能力をお持ちになり、なおかつ人々を従わせる神の権威をお持ちでした。しかし、主イエスはエルサレムに入城するにあたり、お乗りになったのは子ろばでした。白馬でもなければ、少なくとも立派な素晴らしい馬でもありませんでした。この浦和教会のすぐ隣が浦和競馬場になっております。そこでは競馬のレースが行なわれているのですが、教会の2階から馬が走っているのを見ることが出来ます。どれも、筋骨隆々とした素晴らしい馬でした。しかし、主イエスがエルサレムに入城するのに乗られたのはろば、しかも子ろばです。
神の権威と子ろばには相当なギャップがあります。しかし、ここに主イエスの真髄があるのです。それはへりくだりです。
主イエスは神の身分でありながら、私達の罪の贖いのため、十字架に掛かるために、人の身となられたのです。ここにへりくだりがあるのです。マルコによる福音書10章35節から45節で主イエスの弟子達の二人ゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスが栄光を受けられるとき、主イエスの右と左に座らせていただきたいと申し出ました。このことを聞いて他の弟子達は彼らに怒りました。彼らが抜け駆けをしようとしたからです。
ですが、主イエスはそんな彼らに対してこう言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
(マルコによる福音書10章43節から44節)
そしてご自身を指して「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と仰られました。
(マルコによる福音書10章45節)
実際、主イエスはエルサレムで歓呼して迎えられた後、弟子達の足を洗いました。ここにも主イエスのへりくだりが見えます。
ちなみに、4月14日の木曜日が洗足木曜日です。
このように、神の権威を持ちつつも、へりくだる主イエスを人々は歓呼して迎えました。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。」とマルコによる福音書11章8節にあります。本日は棕櫚の主日とも呼ばれていますが、この野原から切ってきた葉の付いた枝から本日が棕櫚の主日と呼ばれています。
ヨハネによる福音書12章13節では、「なつめやし(棕櫚)の枝」と書かれています。ですから「葉の付いた棕櫚の枝」もしくは「棕櫚の葉」と思ってみてもいいかもしれません。ちなみに、本日は棕櫚の主日でしたので、棕櫚の葉を手に入れて、教会を飾ろうと計画していましたが、手に入れることが出来ませんで、すいませんでした。
棕櫚の葉は聖書の中の様々な祭りで使われてきました。例えばイスラエルの祭りで仮庵祭というものがあるのですが、「初日には立派な木の実、なつめやしの葉、茂った木の枝、川柳の枝を取って来て、あなたたちの神、主の御前に七日の間、喜び祝う。」とレビ記23章40節にありますし、ネヘミヤ記8章15節にもこの仮庵祭の記述がこのように書かれています。「これを知らせ、エルサレムとすべての町に次のような布告を出さなければならない。『山に行き、オリーブの枝、野生オリーブの枝、ミルトスの枝、なつめやしの枝、その他の葉の多い木の枝を取って来て、書き記されているとおりに仮庵を作りなさい。』」
このように葉のついた棕櫚の枝、もしくは他の枝は神を称える行為だということがわかります。つまり、エルサレムの民衆は主イエスを神として称え、迎えたということです。さらに、棕櫚の葉は勝利を意味します。ヨハネ黙示録7章9節から10節には主に従う人々がなつめやしの枝を持って、主を賛美する様子が描かれています。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」
「ホサナ」とは「どうか救ってください。」という意味のヘブライ語です。民衆は主イエスが救い主であり、主であるということを分かっていたのでしょう。しかし、この民衆の主イエスに対する歓呼が数日後、主イエスが逮捕されてから非難、嘲笑、怒りに変わりました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」が「十字架につけろ」というふうに変わってしまうのです。そして、その声を発したのは私達でもあります。私達がそして、私達の中にある罪が主イエスを十字架へと向かわせてしまったのです。しかし、主イエスは私達のそういう罪のために死なれ、このような私達をお救いなされました。受難週の期間、主イエス・キリストの苦しみを噛み締め、新たに主イエスの復活をお祝いしましょう。
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