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「エルサレム入城」

2024年3月24日 受難節第6主日 棕櫚の主日 

説教題:「エルサレム入城」

聖書 : ゼカリヤ書 9章9節-10節(1489㌻)

   ヨハネによる福音書 12章12節-16節(192㌻)​​

説教者:伊豆 聖牧師


 本日は主イエス・キリストがエルサレムに入られた日です。本日の第2の聖書箇所ヨハネによる福音書12章13節で人々は歓呼の声を上げて主イエスを迎えました。彼らはなつめやしの枝を持って主イエスを迎えたと13節に書かれています。聖書に登場するこのなつめやしを棕櫚と訳してきましたので本日を棕櫚の主日と呼んでいるのです。なつめやしには聖書では意味があります。それは優美と勝利と祝福の象徴です。詩編92章13節から14節にはこのように書かれています。「神に従う人はなつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ わたしたちの神の庭に茂ります。」

 ですから人々はなつめやしの枝をもって主イエスを出迎えたのです。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」と彼らは主イエスを褒(ほ)め称(たた)えました。

 ホサナとは元々ヘブライ語で「私達を救って下さい。」という意味だったのですが、「神を褒(ほ)め称(たた)えよ」という呼びかけになったと言われています。ここでは両方の意味に取れますね。素晴らしいことです。

 人々が主イエスを祝福の象徴であるなつめやしを持って、歓呼の叫びをもって迎え入れましたが、それには理由があります。これまで主イエスが行ってきた奇跡や教えが人々にこのようにさせたのでしょう。より具体的に言いますと本日の第2の聖書箇所ヨハネによる福音書12章12節より少し前の部分9節です。「イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。」

 主イエスは以前ベタニアでマルタとマリアの弟であるラザロを生き返らせるという奇跡を行いました。その後再びベタニアを訪れました。その時マリアが大切な香油を主イエスの足に塗りました。そして大勢の群衆が主イエスがベタニアにいるということを聞きつけそこにやってきました。そして主イエスがベタニアからエルサレムに入られるということを聞きつけ、エルサレムの住人の多くも主イエスをこのように迎えたということです。本日の聖書箇所ではないのですが、17節から18節にもそのように書かれています。「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。」

 少し戻るのですが、ヨハネによる福音書12章14節から15節を見てみますと「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。『シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。』」

 主イエスはイスラエルの王として人々に歓呼をもって出迎えられました。ですが少し違和感があるのが主イエスがお乗りになられた動物です。王が乗る動物として皆さんは何を想像するでしょうか?勇猛果敢な大きい馬を想像するでしょうか?ですが、主イエスが乗られたのはろばです。しかも子ろばです。どうしてでしょうか?

 馬は王、貴族、兵士、お金持ちの動物です。気性が激しいことでも知られています。一方ロバは背が低く、温和で、目立たない動物です。蹴られても抵抗しません。荒れた道でも行けますし、重い荷物も運びます。そしてユダヤの中でロバは平和の象徴であります。これらの事は主イエスがどのような王であるかをお示しになられています。つまり主イエスが人々の多くの罪を背負い、様々な試練に頑強に耐え抜き、しかもへりくだる、平和の王であるということを意味しているのです。

 『シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。』は本日の第1の聖書箇所9章9節に書かれています。旧約聖書時代の預言者ゼカリヤはこの新約聖書の主イエス・キリストのエルサレム入城の事を預言したのです。そして主イエスは忠実にその預言を成就したのです。

 本日は棕櫚の主日です。このように主イエスがエルサレムに迎えられたことは素晴らしいです。ですが、本日から受難週が始まります。もうすでに受難節なのですが、本当の受難が今日からはじまり、今週の金曜日には主イエスが十字架に掛けられ私達の罪の贖いをされる受難日です。主イエスを歓呼の声で迎えておきながらこの主イエスを非難し、罵り、嘲り、うちたたき、十字架につけろと叫びました。13節で人々が口にした褒(ほ)め言葉「イスラエルの王」は嘲りの言葉とされ、主イエスの罪状とされました。

 ですが人々が褒め称えていた時ですら、主イエスを殺そうとする計画を企んでいた人々はいたのです。私達はいままでの説教や聖書箇所から主イエスに反対し、殺そうとするファリサイ派、律法学者達を知っています。そして主イエスを裏切ったユダも知っています。そして本日の聖書箇所ではないのですが、先程申し上げた箇所をふくめるのですが、ヨハネによる福音書12章9節から11節にも主イエスを殺す陰謀が書かれています。

 「イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。」

 彼らはもちろん主イエスを殺そうと思っていましたが、それだけでなくラザロをまで殺そうとしていました。なぜ殺そうとしたのでしょうか?自分たちの権威を保つためです。自分たちの権威を保つために人を殺そうとする。これが罪です。そして自分たちの律法を批判する主イエスを抹殺しようとしました。これが罪です。罪に突き動かされた彼らは民衆を先導し、主イエスを逮捕し、主イエスを十字架に掛けて殺したのです。私達もまた彼らのような考えを持っているのです。しかし、主イエスは私達の罪を贖うために十字架に掛かられ苦しまれ亡くなりました。私達は私達の罪と贖い、主イエスのお苦しみをもう一度考えなければなりません。

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