「カナの婚礼」
2022年1月16日 降誕節第4主日
説教題:「カナの婚礼」
聖書 : 新約聖書 ヨハネによる福音書 2章1-12節(165㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日の話というのは主イエスが最初に行われた奇跡として有名な話です。主イエスの故郷のガリラヤ地方のカナで婚礼があり、主イエスの母が招かれ、また主イエスと弟子たちも招かれていたということです。そこでトラブルが起こりました。ぶどう酒がなくなったというのです。ユダヤの婚礼は1、2週間続くということで、その間のぶどう酒を提供するよう手配されていなければならないそうです。ぶどう酒を提供できないとなれば、この婚礼はある意味失敗してしまい、新郎、新婦は出席者に対して恥をかくことになってしまうことでしょう。”あのご夫婦の結婚式の時には途中でぶどう酒がきれてしまったんですよ。”なんて事を言われ続ける事態になりかねない状況でした。そんな中、主イエスの母が主イエスにこう言われたのです。「ぶどう酒がなくなりました。」
(ヨハネによる福音書2章3節)
主イエスの母がこのぶどう酒がなくなり、その事を心配して、この様な事を言ったということなので、彼女はこの婚礼にただ招かれていたということだけでなく、この婚礼の主催者に近い立場にいたのではないでしょうか?そして、彼女はこのように言うことによって、主イエスにぶどう酒を用意するよう頼んだということでしょう。しかし、主イエスは母に対してこのように答えられました。
「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時は まだ来ていません。」
(ヨハネによる福音書2章4節)
この主イエスの発言は自分の母親に対して厳しいというか、非礼ではないかと私達に思わせてしまいます。例えば主イエスは母親を「婦人」と呼んでいます。これは他人行儀な感じがするでしょうが、ユダヤ社会において、これは女性に対して尊敬を込めた呼び方です。では「わたしとどんなかかわりがあるのです。」という表現はどうでしょうか?「何という薄情な身も蓋もない言い方をするじゃないか」と思われるかもしれません。ですが、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、弟子を得て、この地上での伝道をスタートさせたのです。いわば、独り立ちをしたのです。ですから、このような事を言われたのだと考えます。もちろん、「父、母を敬う」ということはユダヤの律法にありますが、主イエスの言葉はこの律法を犯しているのではなく、天上におられる父なる神の御心に従っているのだと考えます。
マタイによる福音書10章37節の前半部分にはこのように書かれています。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」主イエスは天におられる父なる神の御心とご計画に従って行動されました。ですから、このような一見すると自分の母に対して薄情な、そして冷酷な表現となってしまっているのだと考えます。主イエスがご自分の近親者に対して一見すると薄情な、そして冷酷な表現をされている箇所が他にあります。マタイによる福音書12章46節から50節にかけて書かれている話です。主イエスが群衆に対して話されている時に主イエスの母と兄弟たちが話したいことがあって外に立っていました。ある人が主イエスにその事を伝えました。その人は主イエスに「お母さんとご兄弟が待っているのだからすぐにそちらに行って、話してあげて下さい」とでも言ったのでしょう。しかし、主イエスはその人にこのように答えられたのです。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」(マタイによる福音書12章48節)
そして、主イエスは彼の弟子たちを指して言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
(マタイによる福音書12章49節~50節)
ここでも一見すると主イエスの実際の母、兄弟に対して随分薄情な、冷酷な物言いですが、これも主イエスが天の父の御心を尊重しているということではないでしょうか?
本日の聖書箇所に戻りますが、ヨハネによる福音書2章4節の最後の部分です。「わたしの時はまだ来ていません。」これは何をいっているのだろうと普通は考えてしまいます。全くわからない。
ちんぷんかんぶんだという思いがあります。ですが、考えられるのはしるし(奇跡)を行う時がまだ来ていないということです。主イエスはこの地上で伝道を行うにあたって2つの事をなしてきました。一つは御言葉であり、もう一つが御言葉を証明するしるしでした。多分まだ、主イエスがしるしを行う許可を父なる神がこの時点では出されていなかったのかもしれません。ですから、「わたしの時(わたしがしるしを行うことが許される時)がまだ来ていません。」とお答えになったと考えられます。さらにいうならば、「わたしの時はまだ来ていません。」という中の「わたしの時」とは主イエスが十字架にかけられる時をイメージさせます。もちろん、婚礼ということは、幸せで、楽しいイメージなのになんでそんな事をイメージするのだという方もいらっしゃるかもしれません。ですが、主イエスは地上で伝道をなさってまいりましたが、究極的には十字架の上で死によって私達の罪の贖いをされました。つまり、十字架というゴールに向かって歩まれていったのです。そして、主イエスが十字架で亡くなられる時、人々は酸いぶどう酒をふくませた海綿をヒソプに付け、主イエスの口元に差し出し、主イエスはそれを受け取りました。(ヨハネによる福音書19章29節~30節)そして、最後の晩餐で主イエスは弟子たちと共に食事をとり、ぶどう酒を飲まれました。そして、本日の聖書箇所のカナの婚礼で問題となっているのもぶどう酒です。ですから、主イエスがおっしゃられる「わたしの時」というのが、主イエスの最後の時の事を意味しているのかもしれません。
しかし、この「わたしの時」が「奇跡を行う最初の時」にしても「主イエスの最後の時(十字架の上で死なれる時)」にしても、いずれも神の御心、父なる神のご計画であることは間違いないのであり、主イエスは神の御心を尊重しているのだという事を述べられているのです。そして、母は召使いたちにこのように言われました。
「この人が何か言いつけたら、そのとおりにして下さい。」
主イエスの母は主イエスに従順に従うことにしました。それは天使ガブリエルが彼女に対して主イエスの受胎を告知した時に受け入れた時と同じ従順さだったのでしょう。やがて、主イエスは召使いたちに6つの石の水がめに水をいっぱいに入れて世話役のところへ運ぶよう命じ、その世話役がその持っていた水の味見をしたら、その水だったものはワインに変わっていたということです。しかもそのワインは前に出されたワインより上質だったということです。主イエスが変えられたワインは人の手によって造られたワインより上質であるということです。
父、母、そして兄弟たちを大切にするということはごく一般にいって大切なことですが、神を大切にするということをおろそかにしてしまいがちです。それはやはり、目に見えないからだと思うのです。信仰も同じです。しかし、この目に見えない神を大切にする、しかも自分の近親者よりも大切にするということはなかなか難しいことです。しかし、主イエスはそれを求めておられると考えます。そして、そのような厳しい選択を迫られる場面にあわせられるかもしれません。その時に最善の選択をすることが出来るようお祈りします。また、主イエスの母の従順さを学びました。私達もまた彼女のように主に対して従順に出来るよう祈っております。そして、主イエスはすべてを良きものに変えてくださるということを証明されました。それはこの水をワインにしかも人の手で造られたワインより良いワインに変えたということです。私達はこれからもこの主イエスに従い信仰生活を歩んでいきたいと思います。
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