「カナの婚礼」
2024年1月21日 公現後第3主日
説教題:「カナの婚礼」
聖書 : ヨハネによる福音書 2章1節-11節(165㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日はカナの婚礼の話です。ガリラヤのカナで婚礼があったのですが、主イエスと弟子達がその婚礼に招かれたのですが、ぶどう酒が足りなくなったので、主イエスの母が主イエスにその事を告げたところ、主イエスが水がめの水をぶどう酒に変えて事なきを得たという話です。ご存じの方もおられるかと思いますし、このように話してしまいますと、奇跡の部分は別ですが何か取り立て注意すべきことはないように思えます。しかし、よく見てみますと所々に大切なことがあるように思われるのです。
本日の聖書箇所の最初です。「三日目に、」とあります。これはヨハネが洗礼を授けていたベタニアからこのガリラヤのカナに主イエスと弟子達が着くまでに三日かかったということです。当然そこに来られた理由は2節に書かれているようにそこで行われる結婚式に出席するためでした。さらに主イエスの母マリアがいたということです。そして3節で母マリアが主イエスに「ぶどう酒がなくなりました。」と主イエスに言われたということです。
おそらく母マリアはこのカナでの結婚式で招いている側であったのだろうということです。ぶどう酒がなくなった事ぐらい大したことないじゃないかと私達は思うかも知れませんが、その当時、その地方で婚礼の席でぶどう酒がなくなるというのは大したことだったということです。
いわゆる招いている側の不手際ということですね。だからこそ、マリアは御自分の息子である主イエスに頼んだということです。ですが、普通であれば頼めはしないのです。というのは母マリアは招いている側、いわばホスト側です。ですが、主イエスと弟子達は招かれている側つまりゲスト側です。彼女が主イエスに頼んだのは親子関係の故にです。そして母マリアは主イエスにどこか酒屋に行ってぶどう酒を買ってきてくださいという意味で言ったのではありません。奇跡を起こして、このピンチを救ってくれると思い、言ったのです。なぜなら、彼女は主イエスが奇跡を起こすことが出来るということがわかっていたからです。
ですが、主イエスはこの母の申し出を断ります。
「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(4節)
主のこの言葉はあまりよくはありません。というよりもはっきり言って悪いです。
「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」
こんなことを実の母親に言うなんてとんでもないことです。父と母を敬えと律法にも書いてあるではないかと思います。それなのに何とひどい言葉でしょう。ですが、重要なことは次の言葉です。
「わたしの時はまだ来ていません。」わたしの時とは何でしょうか?まず、第一に奇跡を行う時ということです。このあと水をぶどう酒に変えるのですが、これがヨハネによる福音書で書かれている主イエスが行われた最初の奇跡となります。つまり、この奇跡は当初予定になかった、つまり父なる神のご計画になかったことだったのかも知れません。だからこそ、父なる神のご計画を尊重したからこそこのように否定的に答えたのかも知れません。
さらにこの「わたしの時はまだ来ていません。」というのはこれから受ける十字架に掛けられる時がまだ来ていないという意味でもあります。この時点で主イエスは自分がいつ十字架に掛けられるのかがわかっていたのです。それでまだその時が来ていないと仰ったのだと考えられます。
つまり主イエスの言葉は父なる神のご計画を尊重したから出た言葉なんです。ペトロの言葉を思い出していただきたい。主イエスがこれからエルサレムで逮捕され、十字架に掛けられて、殺されると仰った時、ペトロはそのような事を仰らないでくださいと主イエスに言いました。これは人間的な事から発した言葉です。だから主イエスは厳しい口調で「退け、サタン、あなたは神の事を思わずに人の事を思っている。」と仰ったのです。
さて、主イエスに断られた母マリアでしたが、この様に召使いに言いました。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」(5節)
多分ですが、母マリアは主イエスがそれでも奇跡を行うことを信じていたのかも知れません。
そして主イエスは水がめに水をいっぱいに入れなさいと召使いに命じ、彼らがその様にすると水がめの水がぶどう酒に変わっていたということです。つまりは奇跡が行われたということです。
主イエスの母マリアに対する否定的な答えとは裏腹に奇跡を行われたということです。どういうことでしょうか?
確かにこれは主イエスの最初の奇跡ではありますが、主イエスがなされた他の奇跡の様に全員が全員主イエスが奇跡を行ったということを知りませんでした。知っていたのは召使いたち、母マリア、そして弟子達でした。
だからこそ、この奇跡を知らない世話役は「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」と花婿を呼んで言ったのです。
つまり、主イエスが大々的に奇跡を行う時はまだ来ていなかったし、当然のことながら主イエスが十字架に掛けられる時もまだ来ていなかったということです。それまでに主イエスはこの地上で御言葉を教え、宣教するという神のご計画がおわかりになられていたのです。ですから、これはこの事を知っている人々にとっての奇跡であったと言えます。最後節がそれを表しています。
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」
つまり、弟子達が主イエスを信じるための奇跡であったということです。これも神のご計画です。まずは身内から信じるようにさせるということです。
このカナの婚礼の奇跡というのは奇跡の種類で言えば、表現はどうかわからないのですが、おとなしいものであったということです。病をいやしたりとか悪霊を追い出したりとかいう、派手さもありませんし、皆が知っているわけでもありませんし、水をワインに変えることが果たして病を癒やしたり、悪霊を追い出したりするほどの実用性があったかというとそうでもない気がします。
ですが、この出来事は意味があります。まず、主イエスと弟子達一行はベタニアから三日目にガリラヤのカナでの婚礼に着いたということです。主イエスは十字架に掛けられ、死なれてから三日目に甦られました。
そして婚礼とはなんでしょうか?和解、いや和解以上のものです。よくキリストと教会の関係は花婿と花嫁の関係に例えられます。キリストは十字架に掛かられることによって私達の罪の贖いをし、神と私達とを和解させました。いや和解以上の関係を持つことが可能になったのです。だからこそ、このカナの婚礼での奇跡はそれを象徴する意味があるのではないでしょうか?
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