「キリストにある生」
2024年10月6日 聖霊降臨節第21主日
説教題:「キリストにある生」
聖書 : フィリピの信徒への手紙 1章12節-20節(361㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日は世界聖餐日礼拝となります。1930年代のアメリカの長老教会が始めたということです。やがて世界聖餐日は世界中のキリスト者が主の食卓につき、一致して互いに認め合うということを表す世界聖餐日を意味するようになります。そして第2次世界大戦が激しくなると、アメリカNCC(米国キリスト教会協議会)の元になった組織であるアメリカ連邦教会協議会がこの日を教派を超えた祝日としました。同じキリスト教徒であっても教派の違いによって何かしらの私達は他の教派に対して距離というものを持ってしまいます。それが時としてあつれきなどを生んでしまいます。これを克服し"一致して認めあうということを表す”この世界聖餐日というものは大切です。そしてこの日を第2次世界大戦が激しくなってきていた時に祝日として制定したということもまた意義深いことだと思います。戦争とは互いの考えの違いから来るものです。ですから戦争を終わらせるもしくは戦争をしないことは相手の考えに耳を傾け、相手を認め合うことです。もちろん、戦争を終わらせる別の方法もあります。それは相手を徹底的に打ち負かすことです。ですがそれでいいのでしょうか?私たちは今日もウクライナ・ロシアの戦争への平和の祈りを一緒に捧げました。その中で私たちは何を言いましたか?
「平和を実現するための知恵と憐れみ、共感の想いを与えてください。」
「互いに食い違う平和への認識を分かち合い、尊重しながら、平和を目指して共に歩む、その知恵と、忍耐を、わたしたちに与えてください。」でしたね。おそらく第2次世界大戦中にこの世界聖餐日を制定した人々もこのような想いを持っていたのかもしれません。未だにウクライナ・ロシアの戦争は続いており、またハマス・イスラエルの戦争は続いており、さらにはそれがイラン、レバノンへと拡大していく傾向にあります。ですから、このような状況の中で本日聖餐式を行うことには意味のある大切な事だと思うのです。
さて本日の聖書箇所に入っていきます。「兄弟たち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」(フィリピの信徒への手紙1章12節から13節)
以前にもお話ししたと思いますが、この手紙はローマの獄中にある使徒パウロから彼が立ち上げたフィリピの教会の信徒たちへの手紙です。なぜパウロはローマの獄中にいるのかというとそれは彼の敵対勢力であるユダヤ人たちに訴えられ、皇帝の裁判を受けるためです。彼はユダヤ人であり、ユダヤ教徒でした。有名な教師のガマリエルの教えを受け育ちました。そんな彼にとってキリスト教徒は許せなかったわけです。だからこそ、祭司長たちの許可を受けてキリスト教徒を引っ捕らえて迫害をしていたのです。ですが、ある日ダマスコの途上で光を受けて、倒れ、その中でキリストと出会い、彼はそして変えられました。福音を伝える器として。そしてパウロは福音を宣べ伝え始めるのですが、面白くない、いやそんな言葉では言い表せませんね、彼を憎み始めるのが祭司長、ファリサイ派、サドカイ派、律法学者といった人々です。つまりキリスト教を迫害していた人たちです。自分たちがキリスト教を、キリスト教徒を迫害する器として使っていたパウロがなんとキリスト教を、福音を伝える器として神に使われるようになったからです。彼らにとってみればパウロは裏切り者です。だからこそ彼らはパウロを迫害し始めたのです。キリスト教徒を迫害するのと同じように。そしてパウロは訴えられ、ローマの監獄にまで連れてこられたのです。パウロが訴えられ、逮捕され、ローマに連れてこられて、ローマの監獄に幽閉された(といってもそれほどひどいものではなくある程度の自由が保障されているのですが)経緯をもう少し詳しくお知りになりたい方は使徒言行録21章27節から28章までを読んでいただければと思います。
さて本日の聖書箇所に戻りますと、確かに訴えられ、ローマで監禁され、皇帝の裁判を待っている状態というのは自由がある程度保障されているのですが、大変な状態であることには違いありません。またローマに行く途中で命を狙われるということもあり、その難をなんとか逃れたということもありました。
そのような状態というのは普通であれば好ましい状態ではありません。ですが、パウロはこの状態を肯定的に捉えているのです。なぜ彼はこのように捉えているのでしょうか?
それは彼にとって一番大切なことは福音が宣べ伝えられることであるからです。12節で「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」とパウロは言っているのがその証です。さらに言うならば13節、14節で彼が捕らわれているのを多くの兄弟たちが見て恐れることなく、御言葉を語りだしたということです。普通であればパウロが捕らわれているのを見て恐れてしまいます。「あー福音を語ることなんかやめよう。」「パウロみたいに逮捕されたり、訴えられたり、監禁されるのなんてごめんだよ。」「そんな迫害されるならキリスト教なんか捨てて静かに生活しようじゃないか」と彼らが思ったとしてもおかしくありません。そう、主イエス・キリストが捕らえられ、十字架の上で殺され、自分たちも同じ目に遭わされるのではないかとびくびくしながら家に隠れていた弟子たちのように。
ですが、彼らはそうではなかったのです。パウロが捕らわれているのを見て、ますます福音を宣べ伝えていったのです。
何が彼らをそうさせたのか?それはパウロが捕らえられてからこれまでに正々堂々、大胆に証をし、それが福音を宣べ伝えることになっていたからです。それを彼らは見たのです。それをパウロにさせ、彼らにさせたのは聖霊の力、信仰の力にほかなりません。だからこそ、パウロはこの状況を悲しむよりも喜んでいるのです。
もちろんパウロにも幾ばくかの懸念はありました。それが15節そして17節に書かれていることです。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、」(15節)「他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。」(17節)
以前私が説教したコリントの教会の事を思い出してください。どんな問題がコリントの教会にあったでしょうか?分派ですね。「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。」(Iコリントの信徒への手紙1章12節)
何がこのような事を人々に言わせているかというと、高ぶりです。「わたしはあなたより偉いのだぞという高慢さ」です。パウロはこのような事を言っている人々を「肉の人」「ただの人」と呼びました。そしてこのような肉の人、ただの人がねたみと争いにかられて、自分の利益のためにキリストを宣べ伝えているとパウロは言っているのです。パウロは行動だけでなくその行動の背後にある動機を大切にします。例えばIコリントの信徒への手紙13章3節でパウロはこのように言っています。「誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」動機が大切であるということです。
ですからパウロはフィリピの信徒たちに、また全キリスト者たちに、そして時を超えて私たちに善意で、愛の動機でキリストを宣べ伝えてほしいと願っているのです。それは15節と16節に書かれています。しかし18節では一転してその不純な動機でキリストを宣べ伝えることを積極的ではないにしろ認める発言をパウロはしているのです。
「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」(18節)
もちろん、正当な動機でもってキリストが宣べ伝えられるべきですし、それが神が私たちに願っていることであり、パウロが願っていることであることは承知しています。ですがそういう動機で伝道をしていない人々もいるということです。それは今でも同じ事が言えます。ですが、神はそのような人々をも福音を宣べ伝える器としていることです。やがて私たちは神の前に立たなければなりません。その時に動機も含めて裁かれるからです。
19節でパウロは初めにフィリピの信徒たちへの配慮を見せます。すなわち「あなたがたの祈りがわたしの救いになると知っている」と言っていますね。ですがそれだけではありません。「イエス・キリストの霊の助けもまたわたしの救いになると知っている。」と言っています。「イエス・キリストの霊」とは聖霊の事です。そして20節ではパウロのキリストに対する熱い思い、愛が表されています。「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと節に願い、希望しています。」
「生きるにも、死ぬにも」という言葉に、パウロのキリストにある生を感じさせます。パウロのようにキリストにある生を共に生きようではありませんか。
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