「キリストに贖われた共同体」
2022年10月2日 聖霊降臨節第18主日礼拝 世界聖餐日
説教題:「キリストに贖われた共同体」
聖書 : 旧約聖書 出エジプト記 12章21-28節(112㌻)
新約聖書 ヘブライ人への手紙 9章23-28節(411㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
私たちは聖書を読んでいると、過越の祭りという言葉を目にします。しかし、その言葉を目にはしますが、よく分からないのではないでしょうか?それもそのはずで、これはユダヤ教のお祭りで、キリスト教徒は祝いません。ですので、私達にはこのお祭りの事がわからないと思います。ですが、キリスト教は元々ユダヤ教から出てきたものですし、主イエスがこの地上で伝道をされていた時に読まれていた聖書は旧約聖書です。新約聖書を、そして福音を理解し、受け入れるためには、この過越の祭りの事を理解しないといけないと思うのです。
私はこれまで何度か出エジプト記の事を説教でお話ししてきましたし、今までの信仰生活で皆さんこの事を何度かお聞きしていると思いますので、聞き飽きている方々もおられるかも知れません。
しかし、重要な事なのでお話しさせていただきます。
イスラエルの民はエジプトで奴隷の状態だったのを主がこの民を導き出し、解放されました。なぜ、彼らがエジプトで奴隷の状態になってしまったのかという事は出エジプト記の最初の部分1章6節から21節に書かれていますが、彼らはエジプトで増え過ぎてしまい、エジプト人の脅威となると考えたエジプトの王が彼らに重労働をさせました。さらに、彼らに男子が生まれたら、助産婦に殺させようとしたりしました。(実際には主を畏れた助産婦は男子を殺さなかったのですが。)そもそも、なぜ彼らイスラエルの民がエジプトに移住したのかは創世記の後半部分に書かれているヤコブの息子ヨセフの物語を読んでみるとお分かりになると思います。少し長いのですが、創世記37章、39章から50章まであります。
さて、このようにエジプトに住み、数が増えたからエジプトの王に脅威と見なされ、エジプト人に迫害され、奴隷状態とされたイスラエルの民の苦難を主は御覧になられ、モーセの前に現れ、彼を民のリーダーとしてお立てになり、エジプト王にイスラエルの民を解放するよう言いなさいとお命じになられました。しかし、エジプト王は中々民を解放しませんので、主はモーセそしてアロンを通じて数々の不思議な業、エジプトにとっては災厄なのですが、それらを引き起こされ、エジプトの王がイスラエルの民を解放し、主に仕えるようにさせようとしたわけですね。
その経緯は出エジプト記7章8節から12章36節に書かれています。過越の祭りというものは主が行われたこれらの不思議な業の一つをイスラエルの民が祝うよう主から命じられた儀式なのですね。
では、この儀式の元となった主なる神がエジプトに対して行われた不思議な業、エジプトの王がイスラエルの民を奴隷にして、圧迫し、彼らを解放しない事に対する罰とはどういったものだったのでしょうか?それは主がエジプト全土を回り、エジプト中のすべての初子を撃つ、つまり殺すという事でした。それがたとえ人であっても動物であってもです。ですが、イスラエルの民の初子は撃たれないというものでした。そのために、イスラエルの民は傷のない一歳の子羊を一家族のため、また量が多ければ、となりの家族のために犠牲として準備しなければなりませんでした。そして、その子羊の血をその子羊の肉を食べる家の入り口の2本の柱と鴨居に塗りました。これが主が初子を撃つために家々を回る時、エジプトの民の家ではなく、イスラエルの民の家という合図となったのです。ですから、主はそこに入らず、つまり過越て、別のエジプトの民のところに行ったのです。イスラエルの民はその子羊の肉をその日の夜に焼いて食べなければなりませんし、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べます。だから除酵祭の日でもあるという事です。
さらに過越の祭り、除酵祭にはさらに様々な規定があります。それは出エジプト記12章1節から28節に書かれています。
確かにエジプト人並びに動物の初子を殺す事を祝うというのは現在の私達の一般的な感覚からすると「おかしいのではないか」とも思うのですが、イスラエルの民にとって見れば、主が彼らを悲惨な奴隷状態から解放するために偉大な御業をなされたこと、そして何よりも主ご自身が民に「このようにしなさい。」と命じられたのですから、彼らが従うのが当然だという考えなのだと思います。そして何よりも彼らは主によって、主の数々の御業を通して解放されたという事なのです。彼らは主に贖われたのです。ですから、彼らがこの過越の祭りを祝うのは当然なのです。
日本にも様々なお祭り、祝い事などがあります。正月、お盆、彼岸、七夕、などです。そしてやはりその行事には祝うべき理由というものが存在します。イスラエルの民の過越の祭りもまたそれを祝うべき理由、ストーリーというものが存在するのです。それは主がイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から救われたというストーリーなのです。この事はイスラエルの民にとってとても重要な事です。彼らの父祖であるアブラハムを主が選ばれたのと同じくらい重要な事なのです。つまり、彼らは主に贖われた民、贖われた共同体なのです。そしてその事を忘れないようにするために過越の祭りという祭りをするわけですね。
さて、私達キリスト者もまた主に贖われた共同体であるということに変わりはありません。私たちはエジプトで奴隷状態であったという経験はありません。しかし、私達は別の奴隷状態であったと言う事です。私達は何の奴隷状態であったのでしょうか?罪の奴隷状態であったのです。私達がどれほど悲惨な状態だったのかということはパウロがローマの信徒への手紙で詳しく語っています。
ローマの信徒への手紙1章18節から32節、2章、3章9節から18節、7章7節から25節です。
ですが、主イエスが十字架におかかりになられ、私達の罪を贖っていただいたのです。本日の第2の聖書箇所にはその事が書かれています。第一の聖書箇所で、犠牲となったのは子羊でした。そしてその犠牲となった子羊の血を玄関の柱や鴨居に塗ることにより、主からの攻撃(初子を撃たれる)を免れる事ができたのです。
第2の聖書箇所では私達は子羊ではなく、神の御子である主イエスの十字架での血潮により、私達の罪が赦されたのです。私達は主イエスを信じる信仰と主イエスの一方的な憐れみによって、主からの攻撃、つまり罪と定められ、罰を受けるということから免れたのです。イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されたという意味で主に贖われた共同体として、過越の祭りを祝われています。しかし、私達キリスト者は罪の奴隷状態からの解放という意味で主に贖われた共同体として、聖餐式を祝っています。この聖餐式は主が定められた物です。そして、主はヨハネによる福音書6章53節から58節でこのように仰られました。「…人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
本日は世界聖餐日ですし、これから聖餐式が行われます。私達はここでキリストの体を食べ、キリストの血を飲みます。そしてイスラエルの民が主に贖われた共同体として過越の祭りをこれからも行っていくように、私達もまた主に贖われた共同体として聖餐式を行なっていきます。
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