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「キリストの住まい」

2024年9月8日 聖霊降臨節第17主日

説教題:「キリストの住まい」

聖書 : エフェソの信徒への手紙 3章14節-21節(355㌻)​​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 さてここに出てくるエフェソという都市、そしてエフェソの教会というのはどういう都市、教会だったのでしょうか?以前にもお話をしたのですが、エフェソはトルコ西部の小アジアの都市でした。そしてアジアと欧州を結ぶ場所にあったので交易都市として発達し、経済的に豊かであったということです。ローマ帝国の交通と経済の要所であったということです。交易都市であったということは色々な場所から人が集まっていたということはその場所の神々もまた持ち込まれたということです。そして経済的に豊かということはそれぞれの神様を礼拝する場所や献げ物が人々に与えられ、多くの神々がそれらの場所で祀(まつ)られていました。中でもアルテミスという神は人気があり、アルテミス神殿という壮大な神殿があったということです。

 このエフェソに住んでいたのは異邦人もいれば、ユダヤ人たちもいたということです。異邦人は当然ながら様々な神々を祀(まつ)っていましたが、ユダヤ人たちは一神教であるユダヤ教を信奉していたので、異邦人とユダヤ人たちとの間で溝があったということです。このような状況の中で使徒パウロはこのエフェソで約3年間伝道をしました。このエフェソでの伝道については使徒言行録19章に書かれています。お時間がある時に読んで頂ければと思います。

 さてこの手紙の書かれた時期なのですが、紀元62年頃にエフェソの伝道を終えて、ローマで獄中にあったパウロがエフェソの教会に書き送った手紙です。この教会の信徒は異邦人とユダヤ人でした。これまで私が語ってきたエフェソの都市の人々の構成や先ほど紹介した使徒言行録19章を読んでみますと異邦人とユダヤ人が登場しますのでそうであるだろうと思われた方もいらっしゃると思います。ですのでこの手紙を読んでみますと、「この部分は異邦人キリスト者に対して書かれているな。」とか「あの部分はユダヤ人キリスト者に対して書かれているな。」とか「そのような区別なく、エフェソの信徒に対して書かれているな」という箇所が随所に見られます。そういうことを意識して読んでいくとこの手紙が私達の耳によりよく響いてきます。

 本日の聖書箇所ではないのですが、「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」

(エフェソの信徒への手紙2章 11節から13節)

 当然パウロが言う「あなたがた」はエフェソの教会にいる異邦人キリスト者を指しています。

「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」(エフェソの信徒への手紙2章15節)ここでパウロは誰を意識しているのでしょう。「律法」という単語が出てきているのでもうユダヤ人キリスト者ということです。


 主イエス・キリストは十字架の贖いの血によって神から遠く離れていた異邦人を神の近くに引き寄せ、律法を廃棄することによってユダヤ人キリスト者との壁を取り払い両者を神の家族としました。それは両者は一人の新しい人となったということです。これらはエフェソの信徒への手紙2章11節から20節の主な内容です。

 そして異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者双方に語っています。まさに異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者から成立しているエフェソの教会にぴったりの内容だとは思いませんか?

 ここで大切なことはキリストにおいて一つになることです。エフェソの信徒への手紙2章11節の少し前の小見出しに書かれているとおりです。Iコリントの信徒への手紙でパウロはどのような批判をしていたでしょうか?色々批判をしていましたが、分派です。私はアポロにつく、キリストにつく等々でした。これは自分が上であるというプライドから来ていると申し上げました。

 エフェソの教会ではどうだったでしょうか?ユダヤ人キリスト者たちからすれば元々神の救いはアブラハムの子孫である私達ユダヤ人に与えられたものであり、異邦人には与えられていなかった。律法も知らない割礼もない新参者がという意識があったかもしれません。そして当然のことながらそんな差別意識を持つユダヤ人キリスト者たちに対して異邦人キリスト者達も反感をもっていました。だからこそパウロは手紙でこのようなことを言ったのではないかと考えられます。

 「キリストにおいて一つになる。」ということは大切ですが、パウロはさらなる成長を求めています。パウロは父なる神に彼ら(エフェソの信徒たち)を成長させていただけるよう求めているのです。それが本日の聖書箇所です。

 エフェソの信徒への手紙3章14節でパウロは父なる神にひざまずいて祈りますとあります。この「ひざまずいて」という言葉が彼の「へりくだり」を表しています。そして15節では「天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」とパウロは言います。「天と地にあるすべての家族」とはどういう意味でしょうか?パウロはこの手紙をエフェソの信徒に対して書いていますが、この箇所ではこのエフェソの信徒たちだけでなくそれ以外のこの地上にあるすべての教会の信徒たち、さらに言うならばもうこの地上にはいない天にいる教会の信徒たちのことを意識して口にしています。なぜならそれらすべての人達は主イエス・キリストによって名前が与えられているからです。

「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて」とエフェソの信徒への手紙3章16節にありますね。少し分かりにくい言葉があります。

「内なる人」とはなんですか?これは私達が持っている霊的な部分です。IIコリントの信徒への手紙4章16節、ローマの信徒への手紙7章22節から23節にも出てきます。この内なる人は神に従おうと私たちにさせようとするのですが、私達の中にはそれとは別に肉に従って生きさせようとする、つまり神に逆らって生きさせようとする法則があるのです。ですから、パウロのこの祈りとは「どうか父なる神が、その豊かな栄光に従って、聖霊によって私達の神に従って生きようとする霊を強めて」となります。


 また17節では「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」とあります。「信仰によって」とあります。

 前節16節はパウロが父なる神に「このようにしてください。」と祈っています。そして父なる神がパウロの祈りに答えるのは神からの一方的な恵みです。そして17節はどうでしょうか?「信仰」という言葉が出てきました。つまり神からの一方的な恵みと信仰です。私がアメリカの神学校で学んだのは私達が救われるのは神からの一方的な恵みと私達の信仰を通してであるということです。そして人をキリスト者として成長させるのもまたこれであると確信しています。このように神からの一方的な恵みと信仰によって救われ、成長することによって私達は何を得るのでしょうか?それがキリストです。キリストに私達の内に住んでいただけるのです。キリストが私達の内に住むことによって私達を愛に根ざさせ、愛によってしっかりと立つことが出来るようにさせていただけるのです。なぜなら「神は愛です。」とIヨハネの手紙4章16節でヨハネが語っているからです。神は愛そのものであるということです。キリストは三位一体の御子なる神であるからです。        

パウロがガラテヤの信徒への手紙2章20節で言っているように「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」

 また18節から19節でパウロは祈っています。何を祈っているのか?エフェソの信徒たちが他のすべての信徒たちとともに神の知恵を身に着けさせてもらえるよう祈っているのです。それはどういう知恵か?「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされる」といった知恵です。


 「何がなんだかよくわからない。」と言われるかもしれません。「そんなことできるわけないでしょう。」と言われるかもしれません。ですが、パウロはエフェソの信徒たちがそのような状態になれると確信していました。だからこそ祈っていました。


 もっと言うならばエフェソの信徒たち自身の努力や才能でそのような状態になるというのであればそれは不可能なことでしょう。ですがよく見てください。この事は16節から始まっていますね。「御父が」つまり神が始めるわけです。神には不可能はありません。

 金持ちの議員が全財産を売り払って主イエスに「自分に従いなさい。」と言われて、悲しそうに去っていった話を聞いたことがあると思います。私も教会でこの箇所の説教をした記憶がございます。その議員が去った後に、主イエスが「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と仰った時、人々が「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。その時の主イエスが仰った言葉は何だったでしょうか?「人間にはできないことも、神にはできる」ではなかったでしょうか?ですから御父が始められるのであれば出来るはずです。そしてパウロがここで言っている状態はIコリントの信徒への手紙2章6節から16節でパウロが語っている神の知恵であり、霊のことです。              


「“霊“は一切のことを、神の深みさえも極めます。」

(Iコリントの信徒への手紙2章10節)


「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」

(エフェソの信徒への手紙3章18節から19節)


 双方とも似ていますね。

 さらにエフェソの信徒への手紙3章18節から19節で重要なことは、パウロはここでもエフェソの教会だけではなく他の地上の教会と天の教会の事を意識しているということです。

「すべての聖なる者たちと共に、」(18節)とありますね。     

これはエフェソの信徒たちだけが神の知恵を身につけるのではなくすべてのキリスト者たちがそのような神の知恵を身につけられるよう祈っているのです。そしてここでも重要なことは「愛」なのです。「キリストの愛」(18節)、「人の知識をはるかに超えるこの愛」(19節)とありますね。

 パウロはIコリントの信徒への手紙13章で「愛」を語っています。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(13節)

 ですから神の知恵とはキリストの愛を知ることです。そのためにはどうしたらいいでしょうか?私達の中にキリストに住んでいただけるように私達を変えていただくよう祈ることです。

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