「キリストの体」
2022年8月7日 聖霊降臨節第10主日礼拝
説教題:「キリストの体」
聖書 : 旧約聖書 民数記 11章24-29節(232㌻)
新約聖書 Ⅰコリントの信徒への手紙 12章14-26節(316㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
「キリストの体」という言葉を聞くと、皆さんは何を想像しますか?「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」と主イエスは仰られました。(ヨハネによる福音書6章35節)
ここでは「キリストの体」とは「命のパン」であり、主イエスの「御教え」「御言葉」として語られています。
そして、今日、聖餐式が行われますが、そこでパンを食べ、葡萄液を飲みます。このパンもまた「キリストの体」として頂くわけです。さらに、教会もまた「キリストの体」として喩えられます。私達は「キリストの体」である教会で礼拝し、「キリストの体」である御言葉を聞き、そして聖餐式には「キリストの体」であるパンを食べるということです。私達キリスト者にとって「キリストの体」とはとても重要なのです。
さて、本日の最初の聖書箇所はモーセ率いるイスラエルの民が荒野に滞在していた時、70人の長老が預言をしたという話です。
もちろん、このような状態になってしまったのには理由があります。それは11章を最初から見るとよく分かるのですが、民が主なる神に不平、不満を言ったのです。彼らは天から与えられた「マナ」を食べていましたが、そればかりではなく、「魚、きゅうり、メロン、葱、玉葱、にんにく」が食べたいと不平を言っていたのです。主は民のこの不満に憤られました。
モーセとしては大変です。片方ではこの民の不平、不満を聞きつつ、もう一方では神の民に対する憤りに対応しなければならないのですから。モーセの立場というのは会社でいうところの中間管理職の様な者であったのではないでしょうか。ですから彼にかかるストレスというのは相当な物でした。事実、彼自身が神に不平を口にしています。
「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか。なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わされねばならないのですか。わたしがこの民すべてをはらみ、わたしが彼らを生んだのでしょうか。あなたはわたしに、乳母が乳飲み子を抱くように彼らを胸に抱き、あなたが先祖に誓われた土地に連れて行けと言われます。この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。彼らはわたしに泣き言を言い、肉を食べさせよと言うのです。わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください。あなたの恵みを得ているのであれば、どうかわたしを苦しみに遭わせないでください。」
(民数記11章11節から15節)
「どうかむしろ、殺してください。」という言葉にモーセの苦しみが伝わってきます。それに対して主はモーセに「長老七十人を集めなさい。」とお命じになり、「モーセに授けている霊の一部を彼らに授け、今モーセが抱えている負担を彼らにも背負わせよう」と仰られました。さらに、主は「民に肉を飽きるほど食べさせる。」とまで仰られました。
その後、主はモーセに仰られたようにモーセに授けられた霊の一部を取って、連れてこられた七十人の長老たちにお与えになられ、彼らは一時的に預言をしたということです。
イスラエルの民、群れは私達の場合でいう所の教会であり、キリストの体であり、モーセに授けられていた霊もまたキリストの体ということです。しかし、あの偉大なモーセですら一人でこの民を担うことが出来なかったということです。確かにモーセは主から選ばれた者でした。キリストの体である霊が主から与えられていました。しかし、担うことが出来なかったのです。ですから、主はモーセに与えた霊の一部を七十人の長老に分け与え、モーセの重荷を彼らに背負わせたのです。ここにあるべき「キリストの体」が存在します。何事もリーダーだけで「キリストの体」は働かないのです。同じく「キリストの体」である教会もまた同じ事が言えます。牧師だけで何もかも出来るわけではありません。私共の教会もモーセが率いていた民の数に比べれば少なく、モーセに比べれば牧師の責務はそれほど大変ではないかもしれません。しかし、それでも、やはり色々な責務があり、それを役員の方々、教会員の方々に担っていただいています。感謝しています。そして、これこそが「キリストの体」を担うことだと思います。
本日の第2の聖書箇所もまたそれがより詳しく書かれています。パウロはここで教会のあるべき形を述べています。
「だから多くの部分があっても一つの体なのです。」
(Iコリントの信徒への手紙12章20節)
多くの部分とは何でしょうか?それは私達です。私達はこの教会で様々な奉仕をしていますし、みんな違います。しかし、この教会をそれぞれの形で担っています。ちょうど、七十人の長老が担っていたように。
一つの体とは何でしょうか?それはキリストです。キリストの体です。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(Iコリントの信徒への手紙12章27節)
ですから、私達はそれぞれ違うタレントを持ち、奉仕をしていますが、キリストの体を担っているということを忘れてはいけません。
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