「キリストの勝利」
2024年4月28日 復活節第5主日
説教題:「キリストの勝利」
聖書 : ヨハネによる福音書 16章25節-33節(201㌻)
ローマの信徒への手紙 8章28節-39節(285㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
私はこれまで主イエスのご復活の事について語ってきました。ですが、本日の第一の聖書箇所は主イエスがご復活するまえ、いや主イエスが捕らえられ、尋問や拷問をされ、十字架にお掛かりになられ、死なれる前にお語りになられたことです。それはこれから主イエスと弟子達が経験することです。
「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。(ヨハネによる福音書16章25節から27節)
主イエスが仰ったその日とはいつのことでしょうか?
ペンテコステの日です。つまりその日に弟子達の上に聖霊が降り、弟子達は力を得るということです。その力にははっきりと父なる神を理解する能力、主イエスの御名によって父なる神に願い、それが叶うことが含まれるということです。ペンテコステの日の特徴として異言があります。その日外国に住んでいたユダヤ人たちがエルサレムに来ていたのですが、彼らはガリラヤの主イエスの弟子達が彼らの出身外国の言葉で主の御名を褒め称えたので驚いたのです。とかくペンテコステの日というとこの奇跡に目が行きがちなのですが、その後ペトロが素晴らしい説教をするのです。そして多くの人々が悔い改め洗礼を受けました。この事が重要なのです。
聖霊の力を受けたペトロは主イエスがここで仰ったようにはっきりと父の事を解っていたのです。だからこそあのような力強い素晴らしい説教をすることが出来たのです。だからこそ多くの人々が悔い改め、洗礼を受けたのです。その後も聖霊の力を受けたペトロをはじめ弟子たちは宣教をしていきます。また奇跡も行いました。これらの事は使徒言行録2章に書かれています。このように主イエスは逮捕される前にこれから起こることを預言しました。
ではなぜ弟子たちに聖霊が降り注ぎそのような力を得たのかということは27節にあります。「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」と主イエスは仰いました。つまり、弟子達が主イエスを信じ、愛したからということです。信じることと愛することはキリスト者として重要です。ヨハネによる福音書そしてヨハネ第一の手紙でもこの2つは強調されています。ヨハネによる福音書1章11節から12節にはこのように書かれています。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」
ユダヤ人達は主イエスを受け入れず、十字架に掛けましたが、弟子たちは信じました。だからこそ神の子となる資格を与えられたのです。だからこそ父は彼らを愛しておられるのです。
さらに主イエスはこう仰いました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13章34節から35節)
「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。」
(1ヨハネの手紙3章11節)
本日の聖書箇所に戻りますと、主イエスのご発言に対して弟子たちは「信じます。」と答えました。29節から30節にかけて書かれているのですが、主イエスが仰ったことがわかりますと言っているのです。本日の聖書箇所の前の部分では彼らは主イエスが何を言っているのかわからないと議論をしていました。17節から18節ですね。ですから、ものすごい進歩です。
しかし、彼らは本当の意味で信じていたのでしょうか?本当の意味で信じるとはどういうことでしょうか?主イエスは彼らの信仰がそれほど強いものではないと思っていました。だからこそ「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。…しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」(ヨハネによる福音書16章32節)
主イエスはここで弟子達が自分を見捨てると言っているのです。これまで寝食を共にして伝道をしてきた弟子達が自分を裏切り、見捨てると言っているのです。なんと辛かったことでしょう。
事実その後そうなりました。
普通であればこの場面で主イエスは弟子達に腹を立てて怒られてもいいと思うのです。ですが、主イエスはそのようなことをする彼らに平和を願ったのです。勇気づけの言葉をかけられたのです。そして実際によみがえられた主イエスは弟子達の前に何度も何度も現れて勇気を与えられました。ユダヤ人たちを恐れて鍵を掛け、家に閉じこもっていた弟子達の真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と仰ったのです。(ヨハネによる福音書20章19節)
主イエスは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と仰いました。(ヨハネによる福音書16章33節)どういうことでしょうか?この苦難とはどういうことでしょうか?当然これから起こる主イエスの逮捕、裁判、十字架での死です。それに伴うユダヤ人の彼ら弟子達に対しての迫害、それに対する彼らの恐れもあります。ユダヤ人達の迫害はペンテコステの後でも起こりました。それは使徒言行録を読めばわかります。ですが、主イエスは既に「世に勝っている。」と仰いました。ユダヤ人達は犯罪人として主イエスを処刑しました。これで彼らは、この世は主イエスに勝利したと考えたことでしょう。ですが、主イエスはご復活し、天に帰られ、聖霊が降り、弟子たちは力を得て、度重なる苦難にもめげず、このように福音が全世界に広がって来たのです。これこそがキリストの勝利ではないでしょうか?
本日の第2の聖書箇所もその事を示しています。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
(ローマの信徒への手紙8章28節)ここでまた出てくるのが「愛する」です。主イエスを信じること、主イエスを愛すること、互いに愛し合うことが重要だと言ってきましたが、神を愛することがその起点となるのです。そういう人々は神の目的に叶って(益となって)歩んでいくということです。
30節「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」召し出された者たち、義とされた者たち、栄光を与えられた者たちとは誰でしょうか?それは私達キリスト者です。
31節「...もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」
ここでパウロは逆説的に言っていますね。私たちに敵対できるものはない。ということです。
37節「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」
ここでパウロはローマの信徒たちに対して私達は勝利を収めているのだと言っています。これは本日の第一の聖書箇所「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)で主イエスが勝利宣言をされたことに呼応しているのです。主イエスは世に打ち勝った、その勝利によって私達もまた勝利をしているということです。
今の世を見てみますと様々な苦難があるのも事実であります。誹謗中傷、いじめなど多くの問題があり、心を痛めることばかりです。主イエスはあの十字架の苦難を通ってご復活なされた。勝利をしたということを忘れてはいけません。それといまこそこの世のもっともらしい正しい考えに飲み込まれないようにしなければなりません。
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