「キリストの叫び」
2021年3月28日 棕櫚の主日礼拝
説教題:「キリストの叫び」
聖書 : 旧約聖書 詩編22篇2節(852㌻)
新約聖書 マタイによる福音書27章45-50節(58㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
主イエスが十字架上で亡くなられる際に発した言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」はとても有名です。そして主イエスが臨終するにあたっての言葉として相応しくない気がするのです。この言葉は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。本日の聖書箇所であるマタイによる福音書27章46節に書かれているとおりです。しかし、あれほど、父なる神を信じ、「わたしと父とは一つである。」(ヨハネによる福音書10章30節)、そして「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネによる福音書14 章9節)とまで言われた主イエスが「父なる神が自分を見捨てた」と言ったのです。ですので、これは極めて衝撃的な言葉です。私達キリスト者がこれを聞けば私達の信仰が折れてしまうぐらいの出来事です。
さらに言うならば、主イエスはこの十字架上の死を予め知っていて、何度も弟子たちに告げていました。マタイによる福音書16章21節や17章22節から23節にその事が書かれています。
だとするならば、主イエスはなぜ黙ってその事を受け入れないのかという疑問も湧いてきます。言葉は悪いのですが、いささか見苦しいのではないかという気がしないでもありません。
しかし、ここで皆さんに考えてほしいのは主イエスの十字架が誰のための十字架であったのかということです。主イエスは罪を犯しませんでした。しかし、私達の罪のために十字架を担われ、十字架で死なれたのです。また、ファリサイ派、律法学者、祭司長たちが群衆を先導し、主イエスを十字架へと追いやりました。彼らの動機は主イエスに対する嫉妬、自分たちの権威をないがしろにされるなど色々あったと思いますが、彼らはこの世を表しています。この世の論理で主イエスを十字架に追いやったのです。そして、私達も以前はこの世に属していて、この世の論理に従って生きていたのです。いわば、彼らは私達の写し絵だったのです。主イエスは私達のそういう一切合切の罪を担われ、贖いをし、十字架で亡くなられたのです。ご自身は罪もないのに私達の罪の贖いのため死なれたのです。そのような主イエスに私達が見苦しいとか覚悟がないと言えるでしょうか?私は言えないと思います。
さらに言うならば主イエスは人でもありました。神であり、人でもあったのです。人は神に対して罪を贖うことは出来ません。もちろん、旧約聖書時代に祭司による罪の贖いの儀式はありました。しかし、それは一時的なものであって、究極的な罪の贖いではないのです。ですから、神が人になり、人の罪を贖う必要があったのです。それが主イエス・キリストです。主イエスには喜怒哀楽がありました。主イエスは怒りもすれば、泣きもしたのです。主イエスは弟子たちの理解の遅さに苛立ちもし、ファリサイ派、律法学者、祭司長たちに怒りもしました。ラザロが亡くなった時、涙を流されました。そして、主イエスは人の弱さも持っていたのです。
ゲッセマネで祈られていた時、主イエスは弟子たちにこう言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」(マタイによる福音書26章38節)さらに、続く39節では「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と言われました。この38節と39節の前半部分は主イエスの人としての弱さを表しています。そして、主イエスが人としての弱さを持っていたからこそ私達の罪の贖いとなることが出来たのです。ですから、例え、主イエスが十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と言われても問題ないのではないかと思うのです。そして、父なる神はこの時点では主イエスを見捨てました。見捨てざるを得なかったのです。なぜなら、主イエスが十字架の上で亡くなる事によって私達の罪の贖いがなされるからです。主イエスが人となってこの世に来られたのはこのためであり、これは父なる神のご計画であったからです。私達はこの世を生きていく中で様々な困難にぶつかります。今までもそうでしたし、これからもそうです。私もそのような所を通らされてきました。主イエスの十字架の上での死ほど大変な状況ではなかったですが、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びたくなるような時もありました。しかし、神はお見捨てにはなりません。神が主イエスをあの時、一時的にお見捨てになったのは私達の罪の贖いのためです。その後、主イエスは復活され、栄光をお受けになられたのです。そして、私達も恵みによって罪を許され、主イエスに連なる者として栄光を受けるようにされました。ですから、いかなる状況であっても私達は見捨てられません。
本日の聖書箇所詩篇22章の2節の前半部分にはこう書かれています。「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。」これは主イエスが十字架上で発した言葉と同様です。また、18節から19節には「骨が数えられる程になったわたしのからだを 彼らはさらしものにして眺め わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」と書かれており、この詩篇22章全体が主イエスの十字架の死を予告していると言われています。しかし、この詩篇22章の最後の部分24節から31節は神への賛美で終わっています。この詩篇の著者は神が信頼すべき方であり、見捨てない方であることを知っていたのではないでしょうか?だからこそ、22節の彼の神に対する叫びが24節から31節の神への賛美に変わったのではないでしょうか?私達も神は私達を見捨てないということを確信しています。「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。」(詩篇23章4節)この事を胸に歩んでいきましょう。
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