「キリストの変貌」
2021年3月14日 受難節第4主日礼拝
説教題:「キリストの変貌」
聖書 : 新約聖書 マルコによる福音書9章2-13節(78㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
主イエスの姿が変わり、栄光を受けられるのが本日の聖書箇所です。しかし、その栄光は地上での一時的な栄光でありました。そして、その栄光は主イエスが十字架の上で殺されてから、復活し、受けられた栄光の先触れでした。主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネという限られた弟子たちを連れて、高い山に登りました。なぜ、主イエスはこれらの限られた弟子たちを連れて登られたのでしょうか?おそらくですが、彼らが弟子たちの中でも主イエスに親しい存在であり、中心のメンバーだったからではないでしょうか?事実、彼らだけがこの奇跡を直に見ることを許されたのですから。
また、主イエスと弟子たちが登られた高い山も注目します。彼らがどの山に登られたか分かりませんが、聖書では山は特別な存在で、そこで聖書上重要な人物が神と出会っています。以前に話したかもしれませんが、モーセが神から十戒を授かった場所はシナイ山(ホレブ山)でした。出エジプト19章1節から20章21節に書かれています。また預言者エリヤがアハブ王と彼の妻イゼベルから逃れた先がホレブ山でした。そこで彼は神と出会い、話をしました。列王記上19章1節から18節に書かれています。主イエスもまた彼の弟子達を伴い山に登られました。何が起こったのでしょうか?主イエスの御姿が変わり、彼の服が白く輝き、どこからともなくエリヤとモーセが現れてイエスと語り合っていたということが2節の後半部分から4節に書かれています。この事は何を意味しているのでしょうか?主イエスが変貌し、3節の「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とはどういう意味でしょうか?白は汚れのない状態を示しますし、輝きは光を表し、ひいては神の栄光を表します。つまり、主イエスのご性質である汚れのない、世の光、そして神の栄光を表していると考えられます。ヨハネによる福音書1章4節から5節、9節に主イエスが光として書かれています。
さらに、本日の聖書箇所のマルコによる福音書9章4節に書かれているエリヤとモーセが主イエスと話をしていたという事はどういう意味でしょうか?旧約聖書には様々な重要人物が出てくるのですが、エリヤとモーセもその重要人物です。エリヤは預言者であり、神はモーセを通してイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放し、十戒という律法を彼らにお与えになりました。エリヤは預言を表し、モーセは律法を表しています。旧約聖書において預言と律法は中心的で重要な事です。しかし、旧約聖書は預言と律法ではなく、新約聖書の主イエスの救いの約束を暗示させてもいるのです。
つまり、旧約聖書の預言を表す預言者エリヤ、律法を表すモーセが主イエスと話をするということは旧約聖書の律法の完成、預言の成就を表し、旧約聖書が主イエスに引き継がれたという事です。マタイによる福音書5章17節で主イエスは言われました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」さらに、それを保証するのは父なる神の声です。本日の聖書箇所7節「これはわたしの愛する子。これに聞け」です。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時も天から声がありました。マルコによる福音書1章11節にこう書かれています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」です。
しかし、このような素晴らしいことを目の前にしても、弟子たちは理解できません。素晴らしいことであるとは分かるのですが、理解出来ないのです。ですから、5節でペトロが仮小屋を主イエス、モーセ、エリヤのために3つ建てましょうという提案をしたのではないでしょうか?この提案は一見すると良い提案のように見えますが、ペトロ自身何が何やら分からず、勢いで言ってしまったように思えます。事実次の6節で「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった」とあります。
しかし、私達もまた同じです。私達も神の意図を理解できずに悩んでいます。そういう中で少しでも神の意図、神のご計画を理解しようとしています。9節、10節でも主イエスが弟子たちに「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と言われても、弟子たちは理解出来ません。彼らにとって死者が復活するという事が想像を超えた事だったからではないでしょうか?さらに言うならば、この事は弟子たちの理解から隠されていたからではないでしょうか?だとすれば私達も彼らと同じ状況に置かれたら、弟子たちのような行動をしてしまうかもしれないのです。
11節で弟子たちは主イエスになぜ律法学者はエリヤがまず来ると主張しているのかと尋ねます。律法学者の根拠はマラキ書3章23節から24節です。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。」ここで言われている預言者エリヤは再来する預言者エリヤもしくは第2エリヤということです。この時、預言者エリヤもしくは第1エリヤというべき人物はもう既にこの地上に来られて、死なずに天に移されたからです。列王記下2章1節から12節にその事が書かれています。
主イエスは律法学者たちのこの主張を認めつつも、人の子、つまり主イエスご自身もまた苦しみを受けるという聖書に書かれている事を主張します。律法学者たちはエリヤの再来はまだないと言っているが、主イエスはエリヤの再来はもう既にあり、人々は彼を好きなようにあしらったと言いました。再来したエリヤもしくは第2エリヤとは誰でしょうか?洗礼者ヨハネの事です。マタイによる福音書17章13節にこのように書かれています。「そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。」事実洗礼者ヨハネはヘロデによって殺されました。さらに言うならば、律法学者が主張するエリヤの再来の根拠となっているマラキ書3章24節に書かれている預言とルカによる福音書1章17節で書かれている主の天使が洗礼者ヨハネの誕生に先立ち、彼の父ザカリアに言った預言も似ています。
主イエスの神の栄光に包まれた御姿、主イエス、モーセ、エリヤとの話し合いに対しての弟子たちの無理解、律法学者の無理解とそれに基づく洗礼者ヨハネを好きなようにあしらったこと、そしてやがて来る主イエスご自身が人々によって苦しめられ、辱められ、そして殺されてしまうことはすべて彼らだけの問題、罪ではないのです。私達も彼らのように、主イエスを理解せず、ぞんざいに扱ってしまう可能性を秘めているのです。いわば彼らは私達の鏡のような存在なのです。このようなことを避けるため日々祈り、学び、聖霊に働いて頂こうではありませんか。
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