「キリストの復活」
2022年4月17日 復活節第1主日 復活日(イースター)
説教題:「キリストの復活」
聖書 : 新約聖書 ヨハネによる福音書 20章1-18節(209㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
皆さん、イースターおめでとうございます。主イエス・キリストは復活されました。ですが、主イエスが復活された当初、その事を理解することが出来た人々はいませんでした。「死者が復活する」事なんてあまりに荒唐無稽(こうとうむけい)で信じることが出来なかったからです。今、現在でも、私達キリスト者以外、いや、キリスト者と言われている人々の中ですら、死者の復活を信じていない人が数多くいます。あまりにも非科学的だからです。
本日の聖書箇所でもそれがわかります。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。』」
とヨハネによる福音書20章1節から2節に書かれています。
マグダラのマリアが墓に行った時、彼女は墓石が取りのけられている光景を見た時、当然の事ながら、彼女が実際にペトロ達に告げたように考えたに違いないのです。彼女にとってその事はあまりにショッキングであり、悲しみを一層深くさせたに違いないのです。主イエスが十字架に掛けられ、殺された場面は本日の聖書箇所の前章、ヨハネによる福音書19章に書かれています。主イエスは人々から嘲笑され、拷問され、罪人として十字架の上で処刑されたのです。自分に近しい人、例えば、家族が亡くなることはそれだけで悲しいことです。まして、その人がただ亡くなるだけでなく、このように処刑されたとあってはその悲しみはいかばかりであったでしょう。しかも、彼女はその悲しみを公に表現出来ない状態でした。なぜなら、主イエスは罪人として処刑され、ユダヤ人達は主イエスの関係者達を狙っていたからです。事実、ペトロは主イエスが逮捕された時、3度、自分は主イエスと関わりがないと言いましたし、弟子達は散り散りになり、ユダヤ人達を恐れ、隠れていました。
そのような深い悲しみにありつつも、公に悲しみを表現できない状態で彼女は墓に行ったのです。もしかしたら、ユダヤ人達に捕らえられるかもしれないという状態で墓に行ったのです。とても勇気のある行動だと私は思います。主イエスの弟子達はユダヤ人達を恐れて隠れていたにもかかわらずです。彼女が主イエスの墓に行った理由はもう一度一目主イエスに会いたいと思ったからというのもあるでしょうが、主イエスの遺体に油を塗るためであっただろうと思います。この主イエスの復活について書かれた別の聖書箇所、マルコによる福音書16章1節から2節にその事が書かれています。しかも、主イエスが葬られた墓に行ったのはマグダラのマリアだけでなく、ヤコブの母マリア、サロメも一緒だったのです。
とすると、前述のヨハネによる福音書20章2節でマグダラのマリアが主イエスの弟子達に告げた「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」という文の「わたしたち」の意味が分かります。
ですが、マグダラのマリアの悲しみがさらに深まったことに違いはありません。彼女の愛した主イエスがあれほど惨たらしく殺されたあげくに、遺体まで取り去られたのです。
マリアの報告を受けた弟子達二人は墓に行きましたが、発見したのは主イエスの遺体を包んでいた亜麻布と頭を包んでいた覆いでした。そして、彼らはマリアが彼らに告げたことを信じたのです。つまり、誰かによって主イエスの遺体が奪われてしまった。墓荒らし、墓泥棒にあってしまったわけです。彼らにとってもショッキングな出来事であったことでしょう。
しかし、事実は違っていたのです。主イエスは復活されたのです。
そのことを聖書は語っています。
「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという 聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」
この聖書の言葉を理解できず、主イエスの遺体が持ち去られ、ショックを受けた弟子達はすごすごと家に帰ってしまいました。
あまりにも情けない光景です。
一方、マリアは墓の外で泣いていたとあります。しかし、どういうわけか、彼女は墓の中を見るんですね。そうすると、二人の天使を見るのです。その二人に「なぜ、泣いているのか」と問われて、彼女は「主が取り去られた」と答えたのです。面白いと言っては不謹慎かもしれませんが、マリアが二人の天使と普通に会話をしているのです。天使は神からの使いですので、神の権威を持っているのです。ですから、一般に人が天使に会うということは大変なことなのです。死の危険すらあり、恐れるべき存在なのです。たぶん、マリアの「主イエスが亡くなられ、その主イエスの遺体すら取り去られた」という悲しみは天使に対する恐れすら克服してしまったのかもしれません。もちろん、別の聖書箇所には彼女のいや、彼女達(マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ)の天使に対する恐れが書かれています。マルコによる福音書16章5節と8節です。ここでの復活物語の時系列は本日の聖書箇所の復活物語と少し時系列が違いますが、興味深いので比べて読んでみるのもいいかもしれません。
本日の聖書箇所に戻ります。そして、彼女は天使たちとは別のある人物に出会います。彼女はその人物を園丁の一人と思い、自分の主が取り去られたことを彼に伝えました。彼女は彼自身が主イエスを取り去った人物だとさえ思ったのです。ですから、彼女は彼にこう言ったのです。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
「あの方を引き取ります。」という言葉にマリアの強い決意が見えます。しかし、マリアが園丁だと思っていた人物こそ彼女の主イエスだったのです。復活された主イエスだったのです。主イエスが「マリア」と呼びかけられ、気付いたからこそ彼女は「先生」と呼んだのです。彼女は喜びを爆発させます。主イエスが「わたしにすがりつくのはやめなさい」と言われたほどです。さらに、主イエスはマリアにこれから昇天することを弟子達に告げよと言われました。そして、マリアは復活された主イエスに出会ったこと、そしてこれからの主イエスの昇天を告げました。
ここで重要なことはマリアと弟子達との態度と復活された主イエスの受け入れ方の違いです。先の二人の弟子達は主イエスの遺体がないとすぐに家に帰るような情けない人々でした。しかし、マリアは泣いていたとはいえ、その場に留まっていました。もっと前からの事を言えば、弟子達は家にいましたが、マリアは墓にまず来ました。なんという差でしょうか。ですが、弟子達とマリアは復活に対して無理解でした。主イエスは以前から復活することを話されていたにも関わらずに。しかし、マリアは復活された主イエスに出会い、喜んで、受け入れたのです。悲しみが喜びに変わったのです。これも主イエスが以前から仰られた通りです。ヨハネによる福音書16章16節から22節に書かれています。
20節「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
22節「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」
マリアの悲しみは喜びに変わったのです。弟子達はマリアのように単純に復活した主イエスを受け入れませんでしたが、やがて受け入れ、喜びました。
イースターはただ単に主イエスの復活を喜ぶというよりも、この悲しみからの喜びに変わることが大切なのだと思います。
キリスト教の葬儀でよく言われるのが、他の宗教の葬儀(日本での場合大抵は仏式となるのですが)と比べると、悲しみよりも、喜びを強調されているのではないかということです。確かにキリスト教の葬儀では「お悔やみ申し上げます。」「ご愁傷さまです。」とはあまり言われません。
私の牧師の知り合いの方で以前告別式を司式されたのですが、出席された牧師仲間の方に95点と言われたそうです。告別式の司式に点数をつけるのもどうかと思うのですが、高い点数ではあります。しかし、5点足りないのが気になったらしく、マイナス5点はなぜなのか聞かれたそうです。その牧師仲間の方が言われるにはもう少し天に帰る喜びよりも悲しみを表した方が良いとのことでした。ですが、その司式をなさった先生はやはり喜びを表現すべきだという立場でした。
このキリスト教の葬儀で悲しみより喜びを表してしまう、例えば天国への凱旋などという表現もやはりこのイースターのキリストの復活に関係しているのではないかと考えるのです。ですから、この考え方に違和感を持たれる方もいらっしゃって召天者記念会をイースターに行う事に対してあまりいい気がしない方もいらっしゃると思うのです。もちろん、私どもの教会は召天者記念礼拝を別の日に行うことにしました。しかし、私は召天者記念礼拝をイースターに行うことは悪いことではないと考えています。と申しますのは、先程から申し上げているとおり、喜びだけでないのです。悲しみから喜びなのです。主イエスご自身もそうですが、主イエスの近親の方々は主イエスが十字架に掛けられ、殺されたことに対して深い悲しみを抱いたのです。その後の復活なのです。そして、主イエスの十字架の上での私達の罪の贖いと復活によって死を打ち破り、昇天されたことは私達キリスト者の存在意義と私達のこれから迎えるであろう死と復活に関わってくるからです。キリストの復活によって私達の復活もあるのです。キリストの再臨によって私達の復活があるのです。だからこそ、キリストの復活(イースター)に召天者記念礼拝を行うことは意味があるのです。その事を覚え、このイースターを祝いましょう。
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