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「キリストの復活」

2023年4月9日 復活節第1主日

説教題:「キリストの復活」

聖書 : 新約聖書 ヨハネによる福音書 20章1節-18節(209㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


イースターおめでとうございます。主は復活されました。

ですが、いざ、その事が起こっても、主イエスに近しい人達、奉仕をしていた女性達や弟子達はその事を理解出来ませんでした。

マグダラのマリアが主イエスの墓に行きましたが、墓から石が取り除かれているのを発見したのです。とっさに彼女の脳裏に浮かんだことは何でしょうか?主イエスの死体が盗まれてしまったという事です。


 この事は彼女を悲しませたと同時に驚かせたことでしょう。ですから、彼女は主イエスの弟子のペトロともう一人の弟子の所へ行ったのです。ただ単に行ったのではありません。「走って」行ったのです。そして彼らにこう言ったのです。

「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません。」

(ヨハネによる福音書20章2節)

彼ら弟子たちにとっても一大事ですので、彼らもまた走って墓に行ったのです。

そしてもう一人の弟子はペトロよりも早く墓に着いたのですが、墓の中をのぞき、主イエスの体を包んでいたであろう亜麻布がおいてあるのを確認するのですが、中に入りませんでした。

しかし、後から来たにも関わらず、ペトロは実際に墓に入り、亜麻布と主イエスの頭部を包んでいた覆いを確認しました。

そして、その後もう一人の弟子も墓に入ってきました。

聖書箇所にはこう書かれています。「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」8節です。

彼は何を信じたかというと、主イエスの遺体が取り去られたことです。彼らは遺体が盗まれたと考えたかもしれません。

 ここまでで出てきた人物はマグダラのマリア、主イエスの弟子であるペトロ、そしてもう一人の弟子です。彼らはこの事つまり主イエスの遺体が取り去られる事の前から悲しみに暮れていました。主イエスがこの地上に現れ、主イエスと出会い、主イエスの伝道に付き従ってきたのです。マグダラのマリアは主イエスに悪霊を追い出して頂き、付き従ってきました。ペトロは漁師でした。一晩中、仲間たちとガリラヤ湖で漁をしていたのですが、魚を取ることが出来ませんでした。その時、主イエスが沖へ出て、網をおろしなさいと仰ったところ、大量の魚が網に掛かるという奇跡を目の当たりにし、主イエスから「あなたは今から人を取る漁師になる」と言われ、主に従ったのです。そして、彼は「あなたは神の御子キリストです」という証すら主イエスの目の前でしました。そして主に従い続けたのです。

 そして棕櫚(しゅろ)の主日、先週の主日なのですが、その時は子ロバに乗った主イエスがエルサレムに人々からの歓呼の声で迎えられた日でした。いまここにいるマグダラのマリア、ペトロ、そしてもう一人の弟子たちにとっては最高潮の時であったことでしょう。

しかし、一変主イエスは逮捕され、裁判にかけられ、人々から暴行され、罵倒(ばとう)され、辱(はずかし)められました。そして罪人として十字架に架けられて、処刑されたのです。彼らの心の中はどんな状態だった事でしょうか?絶望し、自分たちの無力さを思い知って、意気消沈していたに違いないのです。「ああ、あの時の事は夢だったのだ。現実に戻ろう。」と考えたのかもしれません。しかも弟子たちは主イエスが逮捕されるやいなや逃げ去ったのです。主イエスは「自分は逮捕され処刑されるだろう。そして弟子たちは逃げ去るだろう。」と仰ったとおりの事が起こったのです。主イエスが仰った時、ペトロは自分だけは裏切らないと言ったが、結局ペトロは主イエスが仰ったように3回主イエスを知らないと言いました。

この事もあった、ペトロを初め弟子たちの心のなかには自分たちに対して恥ずかしさもあったかも知れません。そして自分たちもまた逮捕され、裁判にかけられ、辱められ、殺されるのではないかという恐怖心もあったと思います。

 3人共、心の中はこのようにひどい状態であったことは容易に想像出来ます。しかし、それでもマグダラのマリアは主イエスの墓に行ったのです。そして主イエスの遺体が取りさられた事を発見したのです。この事は悲しみの上に悲しみを加える出来事だったことでしょう。皆さんも想像してみてください。納骨式(骨壷をお墓に入れることをした)後、墓石が動かされ、自分の近親者の骨壷がなくなっていることに気づいたとしたらどんな気持ちになるでしょうか?そして悲しみと同時にとんでもないことだと思ったからこそ、このマリアは慌てて、走って弟子たちに知らせたのでしょうし、弟子たちもまたそう考えたからこそ走って主イエスの墓を見に来たということです。


 もちろん、彼らは意気消沈していたことでしょう。また逮捕されるかもしれないという恐怖も彼らは持っていたことでしょう。しかし、そんな事を吹き飛ばすぐらい主イエスの遺体が取り去られるということは重要なことだったのです。ですが、彼らはそんなに急いで、走ってきたにもかかわらず、家に帰っていったのです。

8節に「もう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」とあります。つまり、ペトロが墓の中に入り、主イエスの遺体を包んでいた亜麻布と覆いがそれぞれ別の場所に置かれているのを発見し、もう一人の弟子もそれを確認し、主イエスが取り去られたというマリアの言葉を信じたということです。


 この主イエスが取り去られたことはさらに彼らを悲しませたに違いないのです。彼らは取り去られた遺体を探すこともしませんでした。もしかするとそういうことをすれば、ファリサイ派達の注目を浴び、自分達に危険がおよぶかも知れないと考えたのかも知れません。「それから、この弟子たちは家に帰って行った。」と10節に書かれていますが、あまりにも淡々としている気がします。   

あの急いで走って主イエスの墓に向かった弟子たちの姿とは対照的です。ここに描かれているのは一言で言えば情けない弟子たちです。


 マリアもまたそうです。彼女は自分の家に帰らなかった分だけまだましです。しかし、墓の外に立って泣いていました。ですが、ここで神の奇跡が起こったのです。二人の天使たちが現れ、そして最後には主イエスが現れました。最初はマリアは主イエスと認識できず、園丁だと考えたのですが、やがてその人は主イエスとわかりました。


 ここに出てくる人間達はマグダラのマリア、ペトロ、もう一人の弟子です。彼らは弱い存在です。彼らは主イエスの遺体がないということが主イエスの遺体が取り去られた、もしかすると盗まれたと思いさらに悲しみを深め、弟子二人にいたっては自分達の家に帰ってしまいました。その理由としては「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」と9節に書かれている通りです。

常識的に考えれば主イエスの遺体がないということは誰かが主イエスの遺体を取り去ったと考えるのが正しい。ましてや彼らの心は絶望に満たされているのでそう考えてもおかしくないのです。そして死人が復活するなんてありえないというのは常識的に見ても正しいのです。

しかし、主イエスは以前から弟子たちにご自身が逮捕され、裁判にかけられ、辱められ、十字架で殺されると伝えられていました。

それと同時に復活するということも宣言されたのです。


 そして、主イエスはご自身が宣言されたように復活されて、マリアに現れ、彼女に「弟子たちの所に行って主イエスは父なる神の元へ上ると伝えなさい。」と仰いました。


 もちろん、この後、主イエスが父なる神の元へ上られる前に弟子たちの前に現れます。それは主イエスが復活されたという証です。ここで描かれている主イエスは力強いのです。反対に弟子たちとマリアは弱いのです。彼らの弱さは私達の弱さでもあります。

彼らの主イエスの復活に対する無理解は私達の無理解でもあります。この様な弱い私達、無理解で悟るに遅い私達であっても主イエスは哀れみ、私達を救い、それだけでなく、私達を力づけてくださいます。主イエスが父なる神の元に上られてからは慰め主である聖霊が私達を力づけてくださいます。だからこそ、私達は主イエスを賛美するのです。

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