「キリストの昇天」
2022年5月29日 復活節第7主日 昇天記念聖日
説教題:「キリストの昇天」
聖書 : 新約聖書 使徒言行録 1章6-9節(213㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日は主イエス・キリストの昇天記念礼拝です。主イエス・キリストはご復活された復活日(イースター)から四十日間、使徒たちの前に現れました。本日の聖書箇所の前、使徒言行録1章3節「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」と書かれている通りです。それでいくと、実際の主イエス・キリストの昇天日は5月26日、先週の木曜日なのですが、木曜日は聖日ではないので、本日の聖日にご昇天を祝っているのです。
さて、ご復活された主イエスが使徒たちと食事を共にしていた時、彼らは主イエスにこのように尋ねました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(使徒言行録1章6節)
その質問に対して主イエスはこう答えられました。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」(使徒言行録1章7節)
使徒たちは自分たちの師であり、救い主、そして神の御子であると信じていた主イエスが逮捕され、十字架に掛けられ、殺されました。彼らは絶望し、主イエスに従ってきた人生を一旦は捨てました。福音・伝道をするという人生を捨てたのです。ある意味それはしょうがないことでした。彼らの師、主イエスが罪人として処刑され、自分たちも命の危険に晒されていたのですから。ですから、彼らはいつ自分たちも主イエスの様に逮捕され、殺されるかもしれないという恐怖に打ち震えながら、生活していました。そして、当然、彼らも生活していかなければなりませんでした。食べていかなければなりませんでした。ですから、ペトロとある一部の仲間たちは魚をとる漁師になったのです。ペトロと弟子の何人かは元々漁師だったので、漁師に戻ることはそう難しいことではなかったことでしょう。
ですが、彼らの行動は残念でした。せっかく主イエスが真理を示し、福音・伝道をなされたにもかかわらず、主イエスが伝道する前に戻ってしまったわけですから。すなわち、主イエスが地上で福音を伝道していたことは全く、止まってしまい、一般大衆は主イエスの伝道はなかったことというようにしました。弟子たちもそのように受け止め、自分の元の職業にもどってしまったのです。
しかし、神の御計画はこれで終わらなかったのです。
主イエスが生前に弟子たちに仰られたように、主イエスはご復活されたのです。そして、弟子たちの前に現れ、彼らを勇気づけました。絶望に沈み、恐怖に怯え、生きる意義を見失い、ただ生活するために働く彼らは主イエスとの再会に勇気づけられたのです。
当然、弟子たちの意気は上がります。6節はそういう状況の中での弟子たちの主イエスへの質問でした。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」
彼らの師である主イエスは殺されたと思っていたのに生き返りました。主イエスは神の御子であり、その力を持っている。今こそ、主イエスを殺し、弟子たちを迫害しているファリサイ派の人たち、律法学者達、ユダヤ社会の支配階級の人たち、そしてイスラエルを支配しているローマを討ち滅ぼし、彼らのイスラエルの国を建て直してくれる。そのように弟子たちは思ったに違いありません。彼らの頭にあったのはもしかすると旧約聖書時代のダビデ王・ソロモン王時代の繁栄と栄華を極めた独立国であったのかもしれません。
しかし、主イエスが考える神の国とは彼ら弟子たちが思い描く何者にも支配されない独立国イスラエルではないのです。
主イエスはこの様にお答えになられました。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(7節)
神には御計画があり、それにもとづいて実行されます。そのことについて人はいちいち尋ねる権限を持っていないということなのです。パウロはローマの信徒への手紙8章28節でこう述べています。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
私達は神の御計画の事を具体的にいつ、どのように、という様に知ることは出来ませんし、知る立場でもないのです。しかし、神は神ご自身の御計画に従って私達の益となるようなさるということを私達が信じることが大切なのです。人には分というものがあります。これは誰が上とか下だとか、誰が偉いとかそういうことではありません。もし、その様な事であれば、主イエスの弟子達が「彼らの中で誰が一番偉いか」という事を話していた時に「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」など主イエスが仰られるわけはないのです。
ですが、私達は私達に与えられた分を超えてはいけないのです。パウロ自身も「分」という言葉は使いませんでしたが、「限度」という言葉を使ってそのことを表現しました。IIコリントの信徒への手紙10章13節「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。」大切なことは神が割り当ててくださった範囲は何なのかということを見極めるということです。まず、そのためには視点を自分から神へと移行することです。そうすることで神が自分に割り当ててくださった範囲がわかると思います。そうすることで自分の限度、自分の分というものが分かってくるのです。自分中心ではだめなのです。自分中心だと欲にまみれてしまいかねません。モーセのリーダーシップにアロンとミリアムですら反抗し、神を怒らせ、ミリアムは重い皮膚病を患いました。レビ族のコラは自分が祭司でない事に不満を持ち、神の民の上にモーセとアロンが立つのがおかしい、神の民は神の前に平等であるべきとしてモーセとアロンに逆らいました。このコラに同調した人々も逆らいました。この事も神を怒らせ、反抗した人々は神に殺されました。なぜ、彼らはモーセに逆らったのでしょうか?なぜ、彼らは自分たちの分を超えてしまったのでしょうか?嫉妬であり、欲です。主イエスの弟子達が仲間内で誰が偉いのかと言って争ったのと変わらないのです。そうではなく、何が神の前にあって正しいことなのかということを考えれば、自分の分が見えてくるのです。
さて、少し話が長くなってしまいましたが、主イエスは弟子達に「いつ、父なる神が神の国を建てるのかを知ることはあなた達の分を超えている」と言ったのです。そして、重要なことは彼ら弟子達に聖霊が降り、力を受け全世界でキリストの証人になるという事なのです。ここで主イエスと彼の弟子達との間に認識の違いがあるのです。弟子達が望んだイスラエル国というのは現実的な政治的な独立したイスラエル国であったわけですね。残念ながらそれは実現できませんでした。歴史的にみれば、ローマによって滅ぼされ、近年イスラエル国が建てられるまで国が存在しない状態でした。
つまり、主イエスが仰られたのはそういう事ではなく、これから降る聖霊の力によって弟子達が主イエス・キリストの証人になり、福音を伝えるということなのです。これこそが、父なる神が、そして御子なる主イエス・キリストが弟子達に望んでいることなのです。つまり、ここに弟子達と御子なる主イエス・キリスト、ひいては父なる神との間に神の国の考え方の違いがあるのです。
大切なことは何でしょうか?視点を自分ではなく、神に向けることです。つまり、弟子達は自分たちが考えるイスラエルという国の成立よりも、主イエス・キリスト、そして父なる神が彼らに望んでいる、聖霊によって力を受け、福音を宣べ伝えることに注力することなのです。さて、主イエスはこの話の後に昇天し、栄光を受けられました。私達はこの事を褒め称えつつも、主イエスが弟子達に望んだこと、つまり福音を宣べ伝えることに注目します。なぜなら、主イエスが弟子達に望んでいることは取りも直さず、私達にも望まれているからです。ですから、私達も福音を宣べ伝えていこうではありませんか。その時大切なことは、視点を私達自身ではなく、神に移すこと、そして聖霊に満たされることではないでしょうか?
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