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「キリストの昇天」

2023年5月21日 復活節第7主日 昇天日記念

説教題:「キリストの昇天」

聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 24章45節-53節(161㌻)​

説教者:伊豆 聖牧師


 先週の18日木曜日は主イエス・キリストが天に帰られた昇天日です。これは主が栄光を受けられた日でありますし、私達は礼拝の時には毎回、使徒信条を言い、信仰告白をいたします。今日もいたしました。その中で私達はこの事、つまり「キリストの昇天」の事を告白しています。

「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。」

これは使徒信条の一部なのですが、この中の出来事を私達キリスト者は心に留め、特別の日として祝っています。

「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生まれ、」という文言は私達に主イエスの誕生、クリスマスを思い起こさせます。事実クリスマス礼拝は私達キリスト者にとってしなければならない礼拝です。

「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」

主イエスのお苦しみ、十字架上での死と確実に主イエスが葬られたことを思い起こさせます。

三日目に死人のうちよりよみがえり、」とは主イエスの復活を私達に思い起こさせますし、イースター礼拝もクリスマス礼拝と同じくらい大事なものです。

ですが、この文言「天に昇り全能の父なる神の右に座したまえり。」が表す「キリストの昇天」について私達はあまり意識をしていないのでないかと考えるのです。もちろん、主イエス・キリストがお生まれになったことによって私達は救われる機会を神から与えられました。また、主イエスがお苦しみになられ、十字架上で亡くなられたことによって、私達の罪が贖われたのです。

 さらに死人の中から主イエスが甦られたことによって、私達の罪の最悪の結果である死を打ち破られました。

 しかし、主イエスが死人のうちから甦られて、40日間人々に会われ、ご自身が復活されたことの証を立てられたことも重要ですが、この後に主イエスが天に昇られて、父なる神の右にお座りになられたということも重要です。


 それは主イエスが栄光を受けられたということを意味するからです。主イエスはただ単に私達の罪を十字架の上で贖っただけではないのです。そして、それは私達もまたただ単に罪ゆるされただけではないということです。なぜなら、私達もまた主イエスがお受けになられた栄光を受けるからです。少しむずかしい話をさせて頂くと、主イエス・キリストを受け入れることによって罪が赦されることを義認(ぎにん)といいます。義と認められるわけです。    

これが信仰の歩みの出発点です。

そこから、私達は聖霊の助けによって神に似た者(聖なる者)とされる歩みをしていくわけです。なぜなら、神ご自身が私達に聖なる者となるよう求めておられるからです。

レビ記19章2節に書かれています。

「イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」

また、マタイによる福音書5章48節にはこう書かれています。

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

もちろん、すぐに「聖なる者」「完全な者」になれるわけではありません。さらに言うならば、自分の努力でなれるわけでもありません。そして私達の信仰には前進もあれば後退もあります。

ですが、神が私達にこれをお求めになられるということ、つまり神の御心であるということを意識し、そして聖霊の導きによって歩むことは可能であると私は考えます。

 そして、私達が天に召される時に、主イエスの栄光を受け継ぐのです。これを栄化と言います。この最終的なゴールに私達が聖霊の導きによって到達することが可能であると私は考えています。

なぜなら、私達は最初に主イエスを受け入れ、主イエスを通して神の子という身分を手に入れたからです。パウロはローマの信徒への手紙8章17節でこのように言っています。

「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」

この栄光とはなんでしょうか?そうです。主イエスがご復活をなされ、天に昇られ、父なる神の右に座されたことです。

だからこそ、このキリストの昇天が重要なのです。


 さらにこの主イエスのご昇天が私達にとって重要な理由があります。それは主イエスが天に帰られなければ、聖霊が訪れなかったからです。来週の日曜日はペンテコステ、聖霊降臨の記念礼拝ですので、詳しいことは来週に述べたいと思いますが、神のご計画によって、ご復活された主イエスが40日間に様々な人々にお会いになられ、ご自身の復活を証明なさった後、天にお帰りになられ、その後聖霊が降臨いたしました。その降臨された聖霊によって人々は主イエスの証をし、使徒たちも力強い証と説教をし、それが彼らの福音宣教の原動力となったのです。

だからこそ、主イエスのご昇天が重要なのです。

 その事を踏まえた上で本日の聖書箇所を読んでいきたいと思います。ルカによる福音書45節から49節です。

「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。…あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 主イエスがご復活されて、弟子たちを含めて様々な人々にお会いになられている時期でした。主イエスの弟子達が家の中でその事を話していると、突然主イエスがその場に現れたので、彼らは驚いたわけです。実際に主イエスに会った弟子達もいたのですが、やはり死者の復活というのは常識的に考えても受け入れることが出来なかったわけです。

主イエスが彼らの前に現れ、「あなたがたに平和があるように」と仰った時、彼らは目の前に御自分を現された主イエスを亡霊だと思ったということです。ですから、主イエスが彼らの不信仰を咎(とが)めだてて、ご自身が亡霊でもなんでもないということを仰ったのです。そこで、主イエスが弟子達に食べ物をお求めになられ、一切れの焼いた魚を差し出されたのでそれをお食べになられ、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」(44節)

と主イエスは仰いました。

この44節ですが、モーセの律法、預言者の書、そして詩篇の事について主イエスは述べられていますが、これは聖書全体のことを指しておられると思います。

モーセの律法が書かれているのは出エジプト記、レビ記、民数記、申命記ですが、モーセ五書と呼ばれるのはこれに創世記を加えたものです。

つまり創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記がモーセ五書と呼ばれます。そしてこの五書は律法(トーラー)とも呼ばれます。

主イエスが預言者の書(ネビーイーム)とよばれるものは

ヨシュア記、士師記、サムエル記(上下)、列王記(上下)

(前預言者4巻)

イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書

(後預言者3巻)

ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、

ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書

(小預言者書1巻)

そして残りの書を諸書(カトビーム)と呼ぶのですが、主イエスが挙げられた詩篇はこのカトビームを代表するものとして挙げられたのだと考えられます。

少し詳しく説明しましたが、聖書全体が主イエスを証しするものであり、書かれていることは必ず実現するということを主イエスが弟子たちに説明されています。


そして今日の聖書箇所に入るのです。

主イエスが弟子たちに聖書を悟らせるために彼ら(主イエスの話を聞いている弟子たち)の心の目を開いてと45節にあります。弟子たちは聖書を読んでも悟る事が出来ないでいることがあったということです。これは主イエスが地上で彼らと福音伝道をなさっておられた時にも度々見受けられたことです。ファリサイ派の人々はさらに聖書を悟ることが出来ず、主イエスはご批判されていました。「見るには見るが見えず、聞くには聞くが、聞こえない」ということです。

 ですが、主イエスが弟子たちを憐れみ、彼らの心の目を開かせ、彼らに聖書を悟らせるようになされたので、彼らは主イエスのお苦しみと復活、そしてこれからの宣教についてのご計画を理解することが出来たのです。

46節の「三日目に死者の中から復活する。」ということはもうすでにこの時点で起こったことです。

47節の「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」とはこれから聖霊が降り、その後から福音宣教が始まることを意味していますし、それが今日でも続いています。

48節の「あなたがたはこれらのことの証人となる」とは使徒たちがこれから起こる聖霊降臨の時から主イエス・キリストの証人となることを意味します。

49節は「聖霊降臨、ペンテコステが起こるまで都つまりエルサレムに留まっていなさい。」という意味です。

これらの事を主イエスは弟子たちが悟るように仰って後、天にあげられたのです。

私は神のご計画の遠大さ、深遠さをいまさらながら思います。

以前も私は話したのですが、旧約聖書でユダヤ人の国がイスラエル王国とユダ王国に分かれていました。それはダビデ王の息子であるソロモン王が最初は主に従っていたのに後に偶像の神々に従い、主に逆らったことに原因があります。彼の息子の治世の時に国が割れたのですが、双方の国が主に逆らい続け、最終的にイスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされ、ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされました。ユダ王国の住民は住んでいた所からバビロンや周辺の地域に移されました。バビロン捕囚と呼ばれるのですが、彼らはやがて故郷に帰ることが出来ました。

しかしこの出来事はすべて主から出たことであると聖書は告げました。これもまた神のご計画です。そしてバビロン捕囚とは比べ物にならないほど重要な主のご計画、すなわち私達を罪から救い、神に似たものとし、神の子として神の栄光に預からせるという計画が用意されていたのです。すばらしいです。

52節から53節にはこのように書かれています。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」

弟子たちの悲しみ、困惑、恐れが喜びに変わったのです。

これもまた主イエスが地上での宣教をされていた時、仰ったことです。

「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」

(ヨハネによる福音書16章20節)

「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」

(22節)

わたしたちもまた主イエスの弟子たちのように主イエスと出会ったことを喜び、主イエスの昇天を喜びましょう。

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