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「キリストの証人となる」


2022年6月5日 聖霊降臨節第1主日 聖霊降臨日(ペンテコステ)

説教題:「キリストの証人となる」

聖書 : 新約聖書 使徒言行録 2章1-12節(214㌻)

説教者:伊豆 聖牧師


 講壇掛けが赤くなっている事に皆さんお気づきのことと思います。本日は聖霊降臨(ペンテコステ)を記念する礼拝日なのです。この講壇掛けの赤色も聖霊の火を表しているのです。3節に書かれている「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」の中の「炎」のイメージです。そしてこの聖霊降臨日こそが教会の創立日なのです。


 「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と4節にあります。これは異言と言われるものです。この話しだした人達は主イエスの弟子達であり、ガリラヤ出身の人達でした。新約聖書はギリシャ語で書かれていましたが、その当時この地方で話されていた言葉はアラム語であったと言われています。主イエス・キリストが話されていた言葉もアラム語であったと言われていますので、多分この弟子達もアラム語を話していたと思われます。さらに言うならば、ユダヤ社会では下の方に属していました。ですので、自力で外国語を話すことなど出来ませんでした。ですので、ひとえにこの弟子達が外国語を話す事ができた理由は聖霊によるものだということが分かります。聖霊が人に与える力には色々ありますが、ここでは主イエスの弟子達が自力では話すことが出来ない外国語を話すようにすることだったということです。


 ではなぜ、聖霊はそのような力を与えたのでしょうか?一つには神の権威を示すためです。主イエスがこの地上で伝道をなさっていた時、悪霊を追い出し、病人を癒やし、そして死者すら蘇らすといった奇跡を行いました。私は奇跡というものは神の権威の象徴であると考えます。ですが、今挙げたように様々な種類があると思います。この自力では外国語を話すことが出来ない弟子達が外国語を話すことにどのような意味があるのでしょうか?

 

 それはキリストの証人となるということです。7節で人々はこう言っています。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」


 この奇跡が起こった時、世界のあらゆる場所から帰ってきたユダヤ人がいました。ユダヤ人以外の人もいたことでしょう。彼らは自分たちの故郷の言葉で神の偉大な業が語られる事を聞いたのです。つまり、このガリラヤ出身で異言を語った弟子達はキリストの証人となったのです。これこそが聖霊の目的でありました。先週の説教での聖書箇所、使徒言行録1章8節で主イエスは天に昇られる前、弟子達にこのように言われたのを思い出してください。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 

 この主イエスの預言は後に宣教によって世界中に福音が伝えられる事を示していますが、この弟子達の異言の事も指し示しています。キリストの証人となり、福音を宣べ伝えることこそ、神が私達に望んでいることであり、神の御計画であることです。

ですが、この弟子達の異言だけでは人々は納得できなかったのでしょう。12節には「人々は皆驚き、とまどい」と書かれています。「驚きととまどい」は人々が回心に向かう兆しにはなります。しかし、それは人々が回心し、福音を受け入れることにはならないのです。事実13節に書かれているように「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って馬鹿にする人もいたのです。


 ここで説教の力が必要になります。異言だけでは、神の不思議 だけでは人を福音に導くことが出来ないのです。本日の聖書箇所ではないのですが、14節からペトロの説教が始まります。17節から21節にかけて彼は預言者ヨエルの言葉を用いて説教を続けていきます。この説教は36節まで続きます。そして、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。」と37節にあります。それに応えて、ペトロは言いました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

このペトロの言葉を受けて、その日洗礼を受けた人たちが三千人程度になったということです。

 

 このペトロの説教もまた証です。40節に「このほかにもいろいろ話をして、力強く証をし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた。」と書かれているからです。

 

 重要なことは、先程も申し上げたように、弟子達の異言だけでは、人々を回心と福音を受け入れることに導くことは出来なかったということです。もちろん、聖霊が降り、弟子達が異言という奇跡を行うことは素晴らしいことでした。しかし、聖霊の働きはそればかりではなかったのではないかということです。もっと言うならばその奇跡の派手さばかりに注目してはいけないということです。聖霊が降りその力によって弟子達は異言で証をし、さらにペトロもまた聖霊の力によって、説教で証をしたのです。自分の師である主イエスを見捨て逃げ出した情けないペトロ、ユダヤ人を恐れて、逃げ惑っていたペトロはもういないのです。これは後の話なのですが、彼はヨハネと共に逮捕され、議会で取り調べを受け、脅され、鞭打たれますが、それに屈せず、堂々と証をしました。私はこれもまた聖霊の力だと考えます。重要なことは一つです。それは聖霊によって主イエス・キリストの証人となることです。それがどんな形であれ。

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