「キリストの降誕」
2022年12月25日 クリスマス礼拝
説教題:「キリストの降誕」
聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 2章1節-20節(102㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
クリスマスおめでとうございます。これまでのアドベントの期間主イエス・キリストの御降誕を待っていたのですが、ようやくこの時が来ました。さて、本日の聖書箇所に入っていきます。ルカによる福音書2章1節から3節にかけてです。主イエスがお生まれになった頃、イスラエルはローマ帝国の支配下にありました。その頃のローマ皇帝はアウグストゥスで、彼はローマ帝国支配下にある領土にいる人々の住民登録の勅令を出したのです。その当時イスラエルはシリア州に属していたのですが、そのシリア州の総督がキリニウスという人でしたが、この住民登録が最初のものだったということです。そして人々は住民登録をするためには自分の出身地に戻らなければならないということです。
そして、夫ヨセフと身ごもっていたマリアも一緒にガリラヤの町ナザレからヨセフの出身地であるダビデの町と呼ばれるユダヤのベツレヘムに上っていきました。ベツレヘムにいる時に月が満ちて、そこで主イエスがお生まれになったということです。
この事はルカによる福音書2章4節から6節に書かれています。
さて、ここまで読んできてああそうなのだなと一つの物語として読むことも可能なのですが、いくつか注意しなければならない点があるのです。例えばこの住民登録というものはただ単に人の手によるものだけなのかという事、そしてマリアがベツレヘムで主イエスを産んだということも偶然なのかという事です。
ヨセフとマリアはベツレヘムで主イエスを産もうとは考えてはおらず、彼らが住んでいた土地ガリラヤの町ナザレで産もうと考えていたと思います。6節の冒頭部分を見てみますと「ところが」という言葉がその事を表していますし、次の7節に書かれている彼らが宿屋に泊まることが出来なかったという事もそれを表しています。さらに言うならばもし皇帝アウグストゥスが住民登録の勅許を発令しなければ、少なくとも主イエスがお生まれになられるこの時期に発令しなければ、ヨセフとマリアは住民登録のためにベツレヘムに来て主イエスを産むことはなかったわけです。ですから、ヨセフとマリアがベツレヘムに行き、マリアが主イエスを産むことは神のご計画であったのではないかと考えます。神の準備です。
注意しなければならないのは4節です。ヨセフがダビデの家に属していたということ、ベツレヘムがダビデの町と呼ばれていたことです。
救い主はダビデの子孫であるということは預言されておりましたし、多くのユダヤ人達に信じられていました。メシアであるダビデの子孫がダビデの町ベツレヘムでお生まれになられたわけです。
さらにマタイによる福音書2章6節にはヘロデ王にメシアはどこに生まれるのかと問われた祭司長や律法学者たちが預言者ミカの言葉を引用してベツレヘムだと答えています。
「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」(ミカ書5章1節)
このことからも主イエスの御降誕には神のご計画、準備が見られます。神のご計画、ご準備という事はアドベントでの説教やその前の説教でも繰り返し申し上げてきました。ユダヤ人のバビロン捕囚とその後の彼らの解放もまた神のご計画であったことは預言者の口を通して繰り返し述べられてきたことです。
「見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃墟となる。わたしは、そこから喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声、挽き臼の音、ともし火の光を絶えさせる。…これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。」
(エレミヤ書25章9節から11節)
「キュロスに向かって、わたしの牧者わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い 神殿には基が置かれる、と言う。主が油を注がれた人キュロスについて主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれどの城門も閉ざされることはない。」
(イザヤ書 44章28節から45章1節)
最初の聖書箇所はバビロン捕囚の預言で次の聖書箇所はペルシャの王キュロスによるユダヤ人の解放の預言です。捕囚を実際に行ったのはバビロンのネブカドレツァル王であり、解放をしたのはペルシャのキュロス王です。しかし彼らの背後には神のご計画と準備があったということです。彼ら当人がその事がわからなかったとしても。
ですが最終的には彼らもまた神を認識したと考えます。以前私はダニエル書の説教をいたしましたが、その時バビロンのネブカドレツァル王があまりにも傲慢に振る舞い、神から罰を受けて、彼が神の前にへりくだった事を申し上げました。ダニエル書4章にその事が書かれています。彼は神の前にへりくだった時このように言っています。「その時が過ぎて、わたしネブカドネツァルは目を上げて天を仰ぐと、理性が戻って来た。わたしはいと高き神をたたえ、永遠に生きるお方をほめたたえた。その支配は永遠に続きその国は代々に及ぶ。すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて何をするのかと言いうるものはだれもいない。」(ダニエル書4章31節から32節)
「それゆえ、わたしネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、驕る者を倒される。」(ダニエル書4章34節)
またペルシャの王キュロスは解放したバビロン捕囚のユダヤ人が故郷に帰り、神の神殿を建てる許可を出しました。その時の勅令文がこれです。「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上っていくがよい。神が共にいてくださるように。すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ。」(エズラ記1章2節から4節)
バビロンの王もペルシャの王も彼らより上の存在である神を認識していました。
だいぶ話が膨らんでしまいましたが、神はこのようにご計画に従って私たちの歴史に深く関わっていることがおわかりになるかと思います。本日の聖書箇所のローマ皇帝アウグストゥスの住民登録の勅令とマリアのベツレヘムでの主イエスの出産もまたそうなのです。
さて、主イエスの御降誕後に主の天使たちが羊飼いたちに近づき、御降誕の事を告げ、その後、天の大軍の神への賛美が響き渡りました。8節から14節に書かれています。
「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)
有名な句ですね。今日は歌いませんが新聖歌79番のモチーフになっています。神を賛美し、地上の平和を歌っています。これはとても大切ですね。私たちキリスト者の間の手紙のやり取りやメールのやり取りでも最初に来る言葉が「主を賛美します。」です。私は毎朝、週報に載っている聖書日課にある聖句をメールを受け取れる人達にメールしていますが、最初の言葉がこの「主を賛美します。」です。「主に感謝します。」という言葉もそのメールに入れています。主に賛美すること主に感謝することはキリスト者にとって大切です。
さてこの天使の大軍による賛美を聞いた羊飼いたちはどうしたでしょうか?すぐさま天使の言ったベツレヘムに向かって出発しました。15節にある羊飼いたちの言葉「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」そして16節にある「急いで行って」や「探し当てた」という彼らの行動を表す言葉に羊飼いたちのいてもたってもいられない、喜びに満たされた感情を感じ取ることが出来るのは私だけでしょうか?また20節に書かれている彼らがヨセフ、マリア、そして幼子主イエス・キリストに会ってからの行動を表す言葉「神をあがめ、賛美しながら帰っていった。」という言葉に彼らの信仰を感じ取れるのは私だけでしょうか?
ここが重要です。羊飼いという職業はあまり恵まれた職業ではありませんでした。夜通し、凍える中、羊たちの番をしなければならなかったのです。今、日本は12月でものすごく寒いですが、この様な寒さの比ではなかったはずです。彼らが天使たちに遭遇した頃は相当疲れていたに違いないのです。にもかかわらず彼らはすぐに出発し、主イエスを探し当てたのです。まさに驚くべきことです。彼らを突き動かしたのは何だったのでしょうか?信仰と喜びではないでしょうか?だからこそ彼らはすぐに行動したのです。
私はこのアドベントの期間の説教で心静まって主イエスを受け入れるという静的な行動といったん主イエスが来られたら主イエスの元に馳せ参じるという動的な行動の2種類が必要だと申し上げました。この羊飼い達の行動はまさに動的な行動です。東方の三人博士がヨセフ達親子を探すために来たのもやはり動的な行動です。私たちにはこの動的な行動が必要なのではないでしょうか?
神はご計画に従って私たちの救いのために主イエスをこの地上に送られました。そしてお生まれになった主イエスを積極的に受け入れた人達もいました。東方の博士達、羊飼いたちです。もちろん、天使のお告げを受けた父親ヨセフと母親のマリアは言うに及ばずですが。しかし、逆にお生まれになった主イエスを受け入れないばかりか殺そうと企む人々もおりました。ヘロデ王です。またメシア(ユダヤ人の王)の誕生を聞き不安に思う人々もエルサレムにおりました。これはマタイによる福音書2章3節に書かれています。
実際ヘロデは東方の博士たちに騙され、主イエスを特定し、殺すことが出来なかったので、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の子どもたちを虐殺しました。このように主イエスを否定し、殺そうとした人々もいたのです。そしてこの虐殺を逃れた主イエスは成長し、公現し、宣教と御業をなしていきますが、受け入れた人々もおりましたが、否定した人々、特にファリサイ派の人々、律法学者達がおりました。そして主イエスは捕らえられ、十字架に架けられ、殺されました。しかし、主イエスは私たちの罪の贖いのために十字架に架けられたのです。私たちは救われたのです。そして主イエスは殺された後復活し、天に帰られました。
主イエスには生まれたときから主イエスを受け入れた人々と否定し、殺そうとした人々がおりました。私たちはどちらの側に立ちますか?私たちは羊飼いたちのように信仰を持ち喜びを持って主に会いに行こうではありませんか?
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