「クリスマスの光と闇」
2020年12月20日 クリスマス礼拝
説教題:「クリスマスの光と闇」
聖書 : 新約聖書 マタイによる福音書 2章13-23節(2-3㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
クリスマスおめでとうございます。私たちの救い主である主イエス・キリストの誕生は素晴らしい事です。そして、聖書はこの事に関して多くの喜ばしい話を語っています。ルカによる福音書1章28節から38節は天使ガブリエルがマリアに、彼女がやがて神の御子である主イエスを産むということを告げる話です。また、その天使の話を受けて、彼女は彼女の親戚であり洗礼者ヨハネの母エリサベトに会いに行くのですが、そこで彼女は預言をします。彼女の預言はルカによる福音書1章46節から55節に書かれているのですが、マリアの賛歌(マグニフィカト)と呼ばれ大変有名です。さらにルカによる福音書2章8節から20節には天使が羊飼いたちに主イエスの誕生を告げ知らせ、天の大軍が賛美し、これを受けて、羊飼いたちが主イエスに会いに行く場面が描かれています。そして、マタイによる福音書1章20節から25節では天使がマリアの夫であるヨセフに夢の中で現れ、主イエスの誕生を告げます。そして、同じくマタイによる福音書2章1節から2節、9節から11節には東方から占星術の学者達が主イエスの誕生をお祝いするため、まずエルサレムに来て、その後ベツレヘムに来たことが書かれています。
天使による神の御子主イエス・キリストの誕生の預言、マリアの讃歌、天の大軍の賛美、羊飼いと東方の学者達の訪問といったように、これまでの主イエス・キリストの誕生に関わる話は素晴らしい事ばかりです。特に天の大軍の賛美と羊飼いの訪問や東方の学者達の訪問などはクリスマス・ページェント(クリスマスの劇)でも度々見かけます。しかし、主イエス・キリストの誕生はこの様な素晴らしい事ばかりではないという事を本日の聖書箇所は伝えています。マタイによる福音書2章13節から15節です。天使が夢でヨセフに現れ、ヘロデ王がヨセフの息子イエスを殺そうとしているのでエジプトへ逃れよとヨセフに告げます。彼は息子と母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが亡くなるまでそこに滞在しました。主イエス・キリストは誕生してからすぐにヘロデに命を狙われていたのです。そして、その切迫感、緊急性は13節に見られる天使がヨセフに言った言葉「起きて」や14節を見れば一目瞭然です。
この誕生してすぐに命を狙われていたという事はこれまでの祝福された主イエス・キリストの誕生の話とは全く違う話です。いわば、真逆の話であり、今までの祝福された主イエス・キリストの誕生を光とするならば、この話は闇です。そして、16節から18節はその闇が更に深まっていることを伝えています。ヘロデがベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男子を殺させました。主イエス・キリストは難を逃れましたが、ここに住んでいた子供たちは殺されたのです。この話も祝福された主イエス・キリストの話とは異なり、闇の部分です。
では、なぜヘロデは主イエス・キリストを殺そうとし、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男子を殺させたのでしょうか?話は東方の占星術の学者がエルサレムを訪れた事から始まります。マタイによる福音書2章1節から3節です。2節で学者達は言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」そして続く3節にはこう書かれています。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」ヘロデはローマ帝国統治下でこの地の王でした。いわばユダヤ人の王であったのです。にもかかわらず、この東方の学者達はユダヤ人の王として生まれた子供を探しに来たということです。不安になって当然だと思います。さらに、彼は純粋なユダヤ人ではなく、猜疑心が強く、自分の身内をも手にかけるような人物でしたので、主イエスを殺そうと考えるのは当然だったかも知れません。ここに闇があるのです。心の闇です。また、民衆もこのヘロデがこのニュースを聞いて何をしでかすかと不安になったのでしょう。
ヘロデは祭司長や律法学者たちを集めて、その子供が生まれる場所を問いただし、ベツレヘムであると特定し、さらには占星術の学者たちに星の現れた時期を確かめ、彼らにその子供が見つかったら知らせてほしいと言いました。この事は4節から8節に書かれています。もちろん、ヘロデがこの事をしたのは主イエスを殺そうとしたからです。その後、東方の学者たちが星に従って進み、幼子の主イエスとその母マリアのいる家を訪れます。彼らは喜びに満たされ、贈り物を捧げますが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢で告げられたので、ヘロデに知らせず、別の道から自分たちの国に帰っていきました。これらの事は9節から12節に書かれています。当然主イエスを殺そうとしていたヘロデは学者たちに騙されたので、怒ります。それがベツレヘムと周辺一帯の幼児たちの虐殺へと繋がっていくのです。
ここで重要な事がいくつかあります。第一にクリスマスは嬉しいこと、華々しいことばかりではないという事です。主イエス・キリストは生まれた当初から命を狙われ、子供たちが犠牲になってしまったということです。いわば、主イエス・キリストの誕生はこの子供たちの犠牲の上に成り立ったとも言えます。この事を私たちは忘れてはいけないのではないでしょうか。さらに、この原因は何でしょうか?それは闇です。心の闇です。自分がユダヤ人の王であり、邪魔者は殺してでも排除するという心の闇です。それはマタイによる福音書2章2節では「不安」という表現で表されています。今を生きる私たちの心にも闇があるのではないでしょうか?もちろん、私はみなさんがヘロデの様に残虐な事を考えている、もしくは行っていると言っているのではありません。しかし、私たちには不安があると思います。この新型コロナウィルスの事もそうです。感染者数が増加し、休みに帰省するか帰省しないかで悩まれている方々も多くいらっしゃると思います。日々不安を抱えて生活をしています。この様な闇を照らす光として主イエスがお生まれになりました。ヨハネによる福音書1章4節から5節、9節から14節にこの事が書かれています。
次に重要な事は預言の成就です。本日の聖書箇所2章15節「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した。」、18節「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」、23節「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言の成就です。最初の節は旧約聖書の出エジプトをなぞっています。創世記でヤコブとその子供たちがエジプトに移住しましたが、やがて彼らの子孫が増え、エジプト人の脅威とみなされたので、奴隷の状態にされていました。主なる神がこれをご覧になり、モーセをリーダ―にして、この奴隷状態のユダヤ人たちをエジプトから連れ出しました。ヨセフとその家族はヘロデから逃れるため一時的にエジプトに避難しますが、やがてヘロデが亡くなったという天使のお告げを聞き、ガリラヤ地方のナザレという町に住み始めました。その後、主イエスは成長し、伝道を始めます。主イエスの伝道もまた出エジプトの時と同じ様にユダヤ人の奴隷状態からの解放を目的としていました。しかし、この解放は何もローマ帝国やヘロデや特権階級からの人々の社会的解放を意味しません。罪からの解放、心の闇からの解放です。そして、主イエスを受け入れる人々はその恩恵である、罪からの解放、心の闇からの解放を享受できるのです。この恩恵は地域、時、人種を超え、主イエスを受け入れた私たちにも及んでいるのです。この事は神のご計画なのです。18節もまた悲しい出来事ではありますが、この預言が成就されたことを示しています。
主イエスの誕生、クリスマスには光の部分だけでなく、闇の部分があります。そして私たちは光の部分だけでなく、闇の部分、罪の部分に目を向けることによって光の部分、主イエス・キリストを、主イエス・キリストに十字架の上で私たちの罪を贖って頂いた恵みをより深く捉えることが出来るのではないでしょうか?ペトロの手紙一の9節後半から10節に書かれています。「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」
主イエスの御降誕には子供たちの犠牲があり、私たちの罪からの 解放には主イエスの十字架の上での尊い犠牲がありました。その犠牲は私たちの心の闇、罪によるものだという事を今一度、心に覚えつつ、クリスマスを迎えようではありませんか。
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