「サウロの回心」
2023年6月25日 聖霊降臨節第5主日
説教題:「サウロの回心」
聖書 : 新約聖書 使徒言行録 9章1節-21節(229㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
アメリカでの世界ナザレン総会での奉仕を終え、日本に帰ってきてから約1週間経ちました。現地での奉仕は大変だったのですが、同時に日本のナザレンの方々、世界のナザレンの方々と交わることが出来ました。普段は交わりの機会を持つことが少ない日本のナザレンの方々、またほとんど交わることがない世界のナザレンの方々、その中には私がアメリカの神学校で一緒に学んだ人たちとの再会もありましたが、そういう交わりはとても大切な事でした。また、総会での奉仕を通して総会がどのように行われているのかという事を学ぶ機会が与えられました。
これらの経験はこれからナザレンで教職者として伝道・牧会をしていく私の視野を広げ貴重な財産となると考えています。
さて、皆さんはどのように主イエス・キリストに導かれたのでしょうか?もちろん、ここには洗礼を受けられた方、受けられていない方がおり、受けられた方と受けられていない方では主イエスを受け入れることでの違いがあります。また洗礼を受けられた方であってもそれぞれに違いがあると思います。ですが、主イエス・キリストに導かれて、今この浦和教会の礼拝に参加しているということにおいて違いはありません。この浦和教会では前任の山路先生の時に教会員のあかし集が作成されました。私も何度か読ませていただきました。そして皆さんがどのようにして主イエス・キリストに導かれたのかがわかりました。とても素晴らしいあかし集であると思っています。
あかしというものはとても大切です。それは自分がいかに主イエス・キリストに導かれたかということを皆さんの前で言う事だからです。そしてあかしを言うことによって自分自身にもそしてそれを聞いている人々にも主イエス・キリストとの交わりと自分の信仰を確認させる事だからです。礼拝では信仰告白をし、主の祈りをし、新聖歌を歌い、御言葉を読み、説教を聞きます。また来週行いますが、聖餐式もいたします。これらもすべて主イエス・キリストとの交わりと私達の信仰を確認させる事です。ですが、あかしをするのはなかなか精神的にハードルの高いことでもあります。ですので、私の教会人生の中である特定の時期以外はほとんど聞いたことがありません。それはアメリカの神学校に通っていたときに行っていた教会でも、ナザレンの信者として通っていた教会でも神学生として奉仕していた教会でも同様でした。ある特定の時期というのは私がナザレンに入る前に通っていた教会で、その教会では日曜の礼拝が終わってから、あかしをする集会が持たれていました。
そこで前もって牧師先生に指名された人があかしをします。主イエス・キリストに救われたあかし、もしくは病気が癒やされたあかしをするのです。ほぼ強制されていたので、指名された当人にとってみれば、心理的なハードルが高いのですが、普段聞けないあかしを聞くことが出来るという一点において良いことなのかなとも思っています。皆さんはどのようなあかしを持っていらっしゃいますか?
本日の説教題は「サウロの回心」です。サウロというと皆さんは耳馴染みがない方もおられるかと思います。これは使徒パウロの以前の名前です。ちなみに聖書ではサウロという人物は二人おります。旧約聖書のサムエル記に出てくるサウロという人物がおります。この人物はイスラエルの最初の王となります。ですが、やがて主の御心に反した行動を取り、主の前から退けられます。代わって、主に王として立てられた人物が皆さんもご存知なダビデ王です。さてこの王様であったサウロと使徒サウロは別人ではありますが、全く関係がないわけではありません。
以前説教でお話したと思うのですが、イスラエルの人達はアブラハム、イサク、ヤコブという父祖たちと呼ばれる人物の子孫です。このヤコブの12人の息子たちの名前がイスラエルの12部族の名前となりました。その中でベニヤミン族に所属していたのがサウル王です。また使徒サウロもこのベニヤミン族に所属していました。ですので、同じ名前であっても不思議ではないのです。また、私は今神学校公開講座でヘブライ語を受講しているのですが、先生が言われるには、今日多くのイスラエルの人達で聖書上の重要人物の名前を持っている人はいるそうです。モーセさん、ダビデさんなどです。
さて、この使徒パウロがいかに主イエス・キリストに導かれたかというあかしはとても劇的なものでした。それは他の預言者や使徒の召命の物語に勝るとも劣らないものでありました。旧約聖書では様々な預言者が活躍しましたし、それぞれの預言者にはそれぞれの召命の物語がありました。例えば、イザヤの召命の場面はイザヤ書6章1節から13節に書かれています。預言者イザヤがあるヴィジョンを見るのです。そこで彼は主と主の天使たちと遭遇するのですが、そこで彼は主が民に預言者を遣わそうとする御声を聞き、それに応答するというものでした。なかなか劇的ではありませんか。さて、主イエスの弟子である使徒ペトロの召命の話を見てみましょうか?ルカによる福音書5章1節から11節に書かれています。主イエスがガリラヤ湖畔(ゲネサレト湖畔)に立っておられると、主イエスの説教を聞くために群衆が押し寄せてきました。主イエスはそこにあった一そうの船に乗り込まれ、その船はペトロの持ち船であったのですが、ペトロに沖へ漕ぎ出すよう頼まれました。そして、主イエスはそこで説教をされました。その後、主イエスはさらにペトロに沖に漕ぎ出し、漁をするようお命じになられました。ペトロはこの前に一晩中漁をしたのですが、魚は取れなかったので、その事を主イエスに告げましたが、主イエスのお言葉に従い、網を降ろしたところ、大量の魚が網にかかりました。そして、ペトロは恐れを抱き、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。(ルカによる福音書5章8節)
ですが、主イエスはペトロにこの様に仰いました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(ルカによる福音書5章10節)
そして漁師であったペトロはすべてを捨てて主イエスに従いました。
このペトロの召命の話もまた劇的であったと思います。奇跡とペトロのすべてを捨てて主イエスに従う事が。
さてパウロの場合はどうだったでしょうか。彼はその当時はキリスト教の迫害者でした。本日の聖書箇所9章1節から2節にはなんと書かれていますか?
「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。」
「脅迫、殺そう、縛り上げ、連行」というなかなかひどい言葉が並んでいますね。
本来宗教とは愛、もしくは平和を求めるものです。しかし、これはその真逆ですね。パウロはユダヤ教の信者でした。ただの信者ではありません。ファリサイ派の中のファリサイ派であり、ガマリエルという高名な先生の門下でもありました。
ですから、それに反対する勢力が許せなかった。主イエスがこの地上で生きておられた時を思い出してください。主イエスは何度もファリサイ派の人々から殺されそうになりました。崖から突き落とされそうになり、石で打たれそうになりました。彼らは彼らが信条としているものに反対されると、反対している者を「脅迫し、縛り上げ、連行し、殺し」ても構わない、むしろそうすることが正義なのだと考えていたのです。もちろん、この時代には今で言うところの人権という意識はなかったでしょう。そして、この感覚、つまり自分たちの信条に反対する者にはどんな酷いことをしても構わない、むしろそうすることが正義だという考えは、この時代以降も続いていきます。例えば、キリスト教と他宗教との争い(十字軍)同じキリスト教間での争い(カトリックとプロテスタント、プロテスタントの間での争い等)私達はその事に関して考えなければならないと思います。
パウロの話に戻りますが、パウロがそういった感情に満たされていた。敵対者にどんな酷いことをしても構わない、それが正義だという感情に満たされていたということです。
彼自身は気づかなかったでしょうが、これこそが罪なのです。つまり、彼は罪にまみれていたということです。
しかし、ダマスコの途上で突然、彼は天からの光に打たれ、地上に倒れてしまうのです。そして、彼は主イエスの声を聞いたのです。
「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」
(使徒言行録9章4節)
彼は主イエスの弟子達を迫害していましたが、それは主イエスを迫害しているのに等しいことです。
主イエスが地上で伝道をなさっていた時に羊と山羊に分ける例え話をされたことがあります。マタイによる福音書25章31節から46節です。羊は主に従順な人たちで、山羊は主に不従順な人たちです。喩え話ですね。この羊に喩えられた人たちは人に親切にしてあげたのですが、山羊に喩えられた人たちは人に親切にしませんでした。主によって羊は祝福され、山羊は呪われたのです。その時主は祝福された人たちに私に親切にしたと言い、呪われた人たちに、私に不親切にしたと仰いました。彼ら、親切にした人も親切にしなかった人も私(主)にと言われたことの意味が解りませんでしたが、主は「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」と仰いました。
(マタイによる福音書25章45節)
ですので、パウロが主イエスの弟子達を迫害するということは主イエスを迫害することであるということです。
さらに、この迫害は彼の先祖たちの行動をなぞっています。彼の先祖たちも主からの預言者を迫害したのです。主イエスはこの事でファリサイ派の人々と律法学者達を非難しました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。…蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。」
(マタイによる福音書23章29節から34節)
まさに主イエスがマタイによる福音書で批判していたことをパウロは行っていたのです。旧約聖書時代に彼の先祖たちが預言者たちにしていたように、自分もキリスト教徒を迫害していたのです。
しかし、そのような彼に主イエスが現れ、彼は目が見えなくなり、ダマスコに行くのにも人に手を引かれて行くほかはありませんでした。三日間、目も見えず、食べることも飲むことも出来なかったのです。
パウロがこの状態になってしまったのは主からの罰だろうかと考えました。私がこの箇所を読んだ時に思い浮かんだ聖書箇所は2つあります。一つはダニエル書4章です。バビロンの王ネブカドネツァルが高ぶっていた時、主が彼を罰し、彼は「人間の社会から追放され、牛のように草を食らい、その体は天の露にぬれ、その毛は鷲の羽のように、つめは鳥のつめのように生え伸びた。」(ダニエル書4章30節)という状態になったということです。これはネブカドネツァル王が精神錯乱に陥ってしまったという説があります。その後、彼は回復し、主を褒め称え、主に栄光を帰しました。
もう一つの聖書箇所はルカによる福音書1章5節から25節と57節から65節です。
洗礼者ヨハネの父親のザカリアに天使ガブリエルが嫁に男の子ヨハネが生まれることを予告しましたが、ザカリアはその事を信ぜず、ガブリエルはザカリアに彼は信じなかったので口が聞けなくなると宣言し、その様になりました。ザカリアはしばらく口が聞けなかったのですが、ヨハネが生まれ、親戚の人が子供の名前をヨハネとしてよいかと聞いたところ、彼は文字でその事を知らせた途端に口が聞けるようになり、彼は神を賛美し始めたということです。
パウロの話に戻りますと、彼は主イエスから「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」(6節)
先程の繰り返しになりますが、「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。」(8節)
です。ここで表現されているパウロの姿は皆さんにどのように映りましたか?
一言で言えば、情けない姿です。彼は主イエスに命令されてそれに従い、目も見えずに人に手を引いてもらってダマスコに連れて行ってもらったのです。
彼が天から光に打たれる前は彼の姿はどうだったでしょうか?ファリサイ人の中のファリサイ人、ガマリエルの教えを受け、大祭司からキリスト者を逮捕する権限を受けた者でした。自信に満ち満ちていました。それがこのような無力な存在になってしまったのです。そして目が見えないということにはある重要な示唆があります。よく主イエスは目の見えない人たちを癒やしました。そして実際に目は見えているが神の御心がわからない主イエスの反対者であったファリサイ派の人々や律法学者たちを目の見えない者たちと喩えられました。パウロもまた神の御心がわからない者であったので、実際に目の見えない者にさせられたのではないでしょうか?
そして、先に上げたバビロンの王ネブカドネツァルと洗礼者ヨハネの父親ザカリアもまた神の御心が解らなかったので、目が見えなくなるということではなかったのですが、精神錯乱や口が聞けなくなるということになってしまったのではないでしょうか?
さて、主はダマスコにいるアナニアという弟子に、もう既にダマスコに到着し、祈っているパウロの所に行き、手を置いて、目が見えるようにしてあげなさいと指示します。アナニアは最初、パウロがキリスト教徒にしてきた悪事を聞いていましたので、拒否するのですが、主はパウロを宣教する器として選んだと仰って、アナニアは主のご指示通りパウロの所に行き、彼の上に手を置いて、彼は目が見えるようになりました。
それ以後パウロは主イエスの事を宣べ伝える者となりました。
彼の人生はキリストに出会う前と出会った後で180°変わりました。この変化はそれまで自分の力をより頼んでいたネブカドネツァル王が主の前で無力になり、その後主を褒め称えたのと似ている気がするのです。私達はどうでしょうか?
私達はたぶんパウロやネブカドネツァルやザカリアのような劇的な主を受け入れた物語はないかもしれません。しかし、私達は主の前ではいかなる権力、誇りも無力であるということを知らなければいけません。その後に新しい自分、神に変えられた自分、生き方を見つけるのです。
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