「サラの死と埋葬」
2020年9月6日 9月第1主日礼拝
説教題:「サラの死と埋葬」
聖書:旧約聖書 創世記 23章4-6, 16-20節(32,33㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日の聖書箇所での出来事はアブラハムにとって大変つらい出来事だったと思います。彼の妻であるサラの死です。彼は彼の故郷であるハランを出てカナン地方に来ました。その理由は神によるアブラハムの召命でした。神はこう
アブラハムに告げたのです。
「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」(創世記12:1-3)
彼はこの神の召命に従い、甥のロト、ハランで加わった人々、そして彼の妻であるサラと一緒にカナン地方に来ました。彼の人生には様々なことがありました。苦悩、困難もありましたが、喜びもありました。神はアブラハムに対して言った言葉の通りに彼を祝福し、守ってきました。そして、彼のかたわらには彼の妻であるサラがいたのです。
アブラハムの故郷ハランからこのカナン地方まで連れ立って来られた妻のサラなのです。アブラハムの悲しみを聖書はこのように表現します。「アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」(創世記23:2)
淡々と書かれているようですが、それだけに悲しみを表しているのではないかと思ってしまいます。最近なのですが、同じ教団の牧師先生の奥様であり、その方も先生なのですが、その方の葬儀に参列させていただきました。その葬儀で先生が奥様との思い出を語られたのですが、何か具体的に悲しみを表すことはなかったのですが、そうした中にも、悲しみがあったのではないか、アブラハムがサラに抱いた悲しみと同じものを持っていたのではないかと感慨深いものを感じます。
アブラハムは妻サラに対しての悲しみを表してから立ち上がり、そのカナン地方に住んでいたヘト人たちに、このように頼んだのです。「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」(創世記23:4)彼の妻サラが亡くなったのだから、このアブラハムの墓を譲ってほしいというヘト人への申し出は当然です。注目するのは「一時滞在する寄留者」という言葉です。もちろん、アブラハムはハランからこのカナン地方に来たのですから、故郷はハランということです。そういう意味では、アブラハムは彼自身が言ったように「一時滞在する寄留者」であったと言えましょう。しかし、神はアブラハムをハランからこのカナン地方に連れ出しました。それはアブラハムをカナンに一時的に滞在させ、ハランに戻すためだったのでしょうか?違うと思います。ヘブライ人への手紙11章13節から16節にはこのアブラハムを含めた旧約聖書の時代に信仰に生きた人々の生き方が書かれています。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」アブラハムが「一時滞在する寄留者」と自分のことを呼んだのは単に地理的な意味だけでなく、地上において「寄留者」という意味もあったのではないでしょうか。これはキリスト者の生き方の雛形です。パウロはフィリピ信徒への手紙3:20でこう言っています。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。」ですので、わたしたちキリスト者もこの旧約聖書時代に信仰に生きたアブラハムのように「寄留者」「仮住まいの者」とこの世で生きていこうではありませんか。
これはこの世から隔絶して生きていくというわけではありませんし、キリスト者だからこの世の人が持つ感情と無縁というわけではありません。アブラハムは妻サラを失った時嘆き悲しみましたし、墓地を相手が無償で提供するといっているにもかかわらず、購入しました。わたしたちは神に喜ばれる生き方をしていくべきではないでしょうか?
旧約聖書時代に信仰に生きた人々のように。
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