「ザカリアの預言」
2022年12月11日 アドベント第3主日礼拝
説教題:「ザカリアの預言」
聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 1章67節-79節(102㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
アドベントというのは主イエス・キリストのご生誕を静まって待つ時期だと私はアドベント第一主日礼拝で申し上げました。
いわば静的な行動です。しかし、アドベント第二主日礼拝ではいざ主イエスが来られたのであれば、主の元に何はさておいて行かなければいけないとも申し上げました。これは静的な行動ではなく、動的な行動です。主イエスのご誕生を祝うために駆けつけた東方の博士達、御使い達の合唱とお告げを聞いて駆けつけた羊飼いたちの行動に表されます。そして、主イエスがこの地上で業をなし、伝道をされていた時、人々が主イエスの元に御言葉を聞こうともしくは病気を癒やしていただこうと集まったことと同じことです。
この静的な行動と動的な行動が主イエスをお迎えするのに必要だということを申し上げました。
しかし、この静的な行動と動的な行動をするために必要な事があります。それは準備です。物事を始める前には準備が必要です。
私は毎週の礼拝の準備のために、説教箇所決めと説教の準備、新聖歌の歌決め、週報の作成をしております。また奏楽者を含めて礼拝で奉仕をされている方々が礼拝のために様々な準備をされている事も承知しておりますし、感謝しております。アドベントとクリスマスの飾り付けも皆さんにしていただきました。これもまた感謝ですね。
もしこれらの準備をしていなかったらどうでしょうか?例えば牧師が週報の作成をせず、礼拝の説教を用意していなかったらどうでしょうか?むちゃくちゃになってしまいますね。また、礼拝奉仕をされる方々が何らかの事情でしなかったり、もしくは休まれたりしたらどうでしょうか?これもまた大変なことになってしまいます。もっとも、これまでの礼拝でそのような事は何度かあり、他の方々に頼んだり、牧師が代行したりはしたのですが、やはりご本人にしていただいたほうが礼拝がスムーズに行われるというのが私の正直な感想です。準備というものは大切ですね。
では、主イエスのご誕生を静まって待ち、いざ来られたら、主イエスの元に行くことが出来るようにするための準備はどのように整えられるのでしょうか?聖書を読んでみるとわかってくると思います。それは主からの言葉を信じる事によって整えられます。主からの言葉は預言者などの人の口を通して、あるいは天使によって与えられます。
本日の聖書箇所はザカリアの預言についてです。68節から69節にかけて、「主がイスラエルを救い、それはダビデの家から起こされた」と言っています。イスラエルの救いであり、ダビデの子孫であるのは主イエス・キリストであるのでこれは主イエスの御誕生の事を預言しているのです。そして注目すべきは「昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。」
(ルカによる福音書1章70節)です。主は旧約聖書時代の預言者たちの口を通して人々に主イエス・キリストの御誕生を受け入れる準備を整えさせようとしたのです。
さらに、ザカリアはザカリアの息子である洗礼者ヨハネの誕生についての預言もします。
「お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」(ルカによる福音書1章76節から77節)
つまり、主イエスの前に洗礼者ヨハネといういわば主イエスのために準備をする人を主は用意され、その預言をヨハネの父であるザカリアの口を通して人々に告げ知らせたのです。これもまた人々に主イエスを受け入れる準備を整えさせるための主のご配慮でした。
旧約聖書時代の預言者、この預言をした洗礼者ヨハネの父であるザカリア、そして主イエスに先立つ洗礼者ヨハネはすべて人々が主イエスを受け入れる準備を整えさせるためのものでした。
しかし、肝心な事が一つあります。それは信じることです。旧約聖書時代の預言者、ザカリアの預言、そして洗礼者ヨハネの言葉を信じることです。もし、主が準備をしたとしても、預言者たちの言葉を信じなければ意味がないのです。ザカリアの場合がそうでした。ザカリアの預言は息子ヨハネが誕生した時にされました。しかし、この誕生の前にザカリアは天使ガブリエルから息子ヨハネの誕生を告げられたにも関わらず、信じようとしませんでした。その結果、しばらく口がきけないという罰を受けてしまったのです。そして、息子が誕生した時にようやくこの不信心の罪が許され、口が聞けるようになり、この預言をしたのです。
ですから、重要なことは主がご計画によって準備されたこと、御言葉を素直に受け入れることによって私たちは主イエスを受け入れる準備が整えられるという事です。それには私たちの力ではどうしようもないものがあります。聖霊によって私たちの心が整えられないといけないのです。主は私たちの想像しえない力で私たちの救いのご計画を立てられました。そして主イエスをこの世に送られ、私たちを救ってくださったです。私たちが救われたのは主イエスを受け入れたからなのです。多くの人々は主イエスを拒絶したのです。主イエスを十字架にかけたのです。
「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」
(ヨハネによる福音書1章11節)
そういう状態だったのです。
ですが、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」
(ヨハネによる福音書1章 12節)
とあるように私たちもまたキリストを受け入れ、神の子となる資格を与えられたのです。
この事を軽んじてはいけません。
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