「ソロモンの知恵」
2022年8月28日 聖霊降臨節第13主日礼拝
説教題:「ソロモンの知恵」
聖書 : 旧約聖書 列王記上 3章16-28節(532㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
謎かけ、諺(ことわざ)、格言、教訓、寓話、対話、論争といった様々な文学形式を用いて世界の秩序を教える文学は知恵文学と呼ばれます。私達の中にもいくつかの諺、格言、教訓、寓話を思い浮かべられる方々がいらっしゃるかと思います。旧約聖書の中にもこの知恵文学と呼ばれる書が幾つかあります。「箴言」、「ヨブ記」、「コヘレトの言葉」、「詩篇」の一部などです。本日の聖書箇所である列王記上は知恵文学に入っていませんが、この知恵文学の一つである「箴言」を書いたであろう知恵あるイスラエルの王、ソロモン王の知恵の一端を垣間見せるエピソードが書かれています。
二人の遊女がソロモン王に訴え出る所から物語は始まります。彼らは同じ家に住んでいました。一人が子どもを産み、三日後にもう一人も子どもを産みました。しかし、この三日後の子どもを産んだ女性は夜中寝ている時に自分の子どもに寄りかかったため、この赤ちゃんは亡くなってしまいました。しかし、その女性は夜中起きて、自分の死んだ赤ちゃんを、眠っているもう一人の子どもを産んだ女性に抱かせ、この女性が抱いていた子どもを自分の所に連れて行ってしまったということです。この自分の子どもを取られた女性は朝起きて、子どもが死んでいて、しかもその子どもが自分の子どもでもないことに気づきました。しかし、自分の死んだ子どもをその女性に抱かせ、その女性から生きている子どもを奪った女性はその生きている子どもが自分の子どもであり、死んだ子どもが相手の子どもだと主張するのです。彼ら以外にその家に住んでいる者はいなかったということで、証人はいないのです。ですから、ソロモン王にこの問題の解決のために訴え出たという事になったのです。
さて、双方の女性が死んだ子どもは相手の女性の子どもで生きている子どもが自分の子どもだと主張し、証人はいないのです。ソロモン王はどのような判決を出したのでしょうか?
まず、王は驚くべき事を口にします。「剣で生きている子どもを二つに裂き、一人に半分を、もう一人に残りの半分を与えよ。」と言うのです。生きている子の本当の母親はその子の事を哀れに思って、「そんな事をしないでください。その子をもう一人の女性に与えてください。」と言いましたが、もうひとりの女性、つまり死んだ子どもの母親は「この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください。」と言うのです。
この二人の女性の発言を聞いた王はこの子どもの本当の母親であり、哀れんだ発言をした女性に、この子どもを与えよと命じるのです。
確かに「生きている子どもを二つに裂きなさい。」という王の発言は現代の民主主義の裁判で言えば、とんでもない事であります。しかし、この王の発言は二人の女性のどちらが正しくて、どちらが正しくないのかを表しました。本当の母親は自分の子どもが例え自分の許からいなくなり、育てることが出来なくなっても、生きてほしいと願いました。もちろん、自分の子どもを手放すことは本当に辛いことだと思うのです。それでも自分の子どもに生きてほしいと願ったのです。ここに愛があります。
もう片方の自分の子どもでない子どもを奪い、自分の子どもだと主張した女性はなんと言ったでしょうか?「この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください。」と言ったのです。裂いて分けてしまえば、この子どもは死んでしまいます。そもそも「わたしのものにも、この人のものにもしないで」と女性は言っているのですが、彼女はこの子ども(生きている子ども)を自分のものにしたくて裁判を起こしたのではないでしょうか?にもかかわらず、このような発言をするのはどうにも分かりかねるのです。一つ分かっていることはこの女性が冷酷で、この子どもの親ではあり得ないということです。実際この女性はこの子どもの親でないのですが、例え、この女性がこの子どもの本当の親であっても、ちゃんとこの子どもを育てることは出来ないと考えます。
最近は児童虐待のニュースを聞き、憂(うれ)えています。子どもの母親が離婚し、新しいパートナーの方と同居されるのですが、そのパートナーがその子どもを虐待するという話を聞くのですが、中には実際の子どもの母親自身が虐待するケースもあるそうです。
ですから、この本当の母親の子どもが自分の許にいなくても生きてほしいと願う心持ち、愛は大変、貴重な事だと思うのです。
そして、その事を神の知恵によって分かっていたからこそ、ソロモン王はその子を本当の母親の許に返すよう命じたのです。
このような神の知恵をソロモン王はどのように得られたかという事は同じ列王記3章5節から14節に書かれています。
ソロモン王の夢枕に主がお立ちになり、願い事を言いなさいと仰られたのです。ソロモン王はこう答えました。少し長いのですが、「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」(列王記3章6節から9節)
ここで重要なことの一つが「あなたの僕」から「どのようにふるまうべきかを知りません。」までの部分です。この部分はソロモン王が「どれほど主を畏れ、敬い、そしてどれほど自分をへりくだらせているか」が分かる箇所です。
箴言1章7節にはこう書かれています。「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」そして「へりくだり」が大切な事は何度も聖書に出てきますし、私も何度も説教で言ってきました。私達に「主への畏れ、主への敬い、へりくだり」はあるでしょうか?
ソロモン王はその上で知恵を求めたのです。彼の求めは必死でした。主はこのソロモン王の願いを大層喜ばれ、この知恵、神の知恵をお与えになられたのです。
本日のソロモン王の裁判は神の知恵が与えられたことを証明しています。実際に列王記3章28節にはこのように書かれています。
「王の下した裁きを聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。神の知恵が王のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである。」
今の時代は情報が氾濫し、なおかつ何が正しくて、何が間違っているかが昔に比べるとわかりづらくなっている気がします。前にも言いましたが、価値観の多様性ということもあるでしょう。ですが、法律的に問題ないのであれば、それで良いということが増えている気がするのです。昔であれば、非難されることが今では受け入れられている。時代の流れと言ってしまえばそれまでなのですが、それでも何か間違っている気がするのです。やはり、このような時代だからこそ、私達には確固たる基準、このような神の知恵が必要なのではないでしょうか?もちろん、ソロモン王のような知恵をすぐに持てるということは出来ないでしょう。しかし、少なくともそれを追い求めることは必要なのではないでしょうか?
ヤコブの手紙の3章13節から17節に上からの知恵、つまり神の知恵の事が書かれています。「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」と17節に書かれています。さらに、「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。」と13節に書かれています。
このような上からの知恵を持った生き方の逆の事をヤコブは14節から16節でこのように言っています。「しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。」
果たして私達はどちらの知恵を持っているでしょうか?
どちらの知恵を追い求めるべきでしょうか?
しかし、私達の究極の目標は主イエス・キリストです。主イエスこそ神の知恵そのものであり、真理です。ですから、私達は主イエスを追い求めるべきなのです。
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