「ダニエルの祈り」
2022年1月30日 降誕節第6主日
説教題:「ダニエルの祈り」
聖書 : 旧約聖書 ダニエル書 9章3-19節(1395㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
祈りというものは私達キリスト者にとって重要なことです。例えば、本日の礼拝でも司式者が祈り、指名された方が祈り、別の指名された方が献金の後に献金感謝のために祈り、説教者の私がこの説教の後に祈り、祝祷でも祈ります。また、礼拝前に、説教者の私、司式者の方、そして奏楽者の方が集まり祈ります。つまりこの礼拝のため6回祈りが捧げられているのです。そして、礼拝中には私達は主の祈りを祈りますので、それを入れると7回祈りが捧げられているということになります。
では、なぜ祈りは重要なのでしょうか?それは私達が自分達の心の中にある不安、苦痛、喜び、願い、感謝などを神に言い表し、神との関係を確認するからではないでしょうか?そして、神の御心にかなえば、わたしの中にあることは神によって解決されていくと私は考えます。もちろん、私達が考える時間ややり方ではなく、神が最善であると考える時間とやり方で、ではありますが。
ここで重要なことは祈りとは神との関係を再確認するということです。例えば、私達が神に祈るということを止めたとするとどうなるでしょうか?それは私達が神との関係を止めるということになると思うのです。それは神を捨てる、もしくは神を忘れるということだと考えます。それはとても恐ろしいことだと考えます。以前にも説教でお話をしましたが、旧約聖書の士師記という箇所があります。イスラエルの民が主なる神を捨て、他の神々に仕え、そのせいで主なる神が民を敵の手に渡しました。民は主なる神に助けを求めました、そして主なる神は民の声に答え、士師と呼ばれるリーダーを民の中から任命し、彼を以て、民を救いました。しかし、一旦救われると、民はまた主なる神から離れ、別の神々に仕え、主なる神が民を敵の手に渡し、民が救いを主なる神に求め、主なる神が士師を起こすということが繰り返されました。
ここで重要なことがいくつかあります。まず、イスラエルの民が主を捨てるという過ちを繰り返し、その度に主なる神が敵の手に彼らを渡されたということです。彼らは同じ過ちを繰り返し、痛い目にあったにもかかわらず、どうして同じことを繰り返したのでしょうか?彼らが特別愚かだったのでしょうか?そうではありません。私達もまた彼らと同様に愚かなのです。
私達もまた日々の生活のなかで神を忘れる時があります。
以前、祈祷会で参加されている人達と話したのですが、よく言われるのが、礼拝の時は神のことを考え、賛美し、祈っているのですが、教会を一歩出て日常の生活に入ると神のことを忘れてしまうということです。日常生活でキリスト者として振る舞えない、どうしても、普通の人として行動してしまうということです。
これはなかなか難しい問題です。普段の生活でキリスト者として振る舞えるようにするためにはどうしたら良いでしょうか?もちろん、自分の力でどうにかできるものではなく、聖霊の力によって変えていただくようにしてもらわなければなりません。
しかし、一つアドバイスをさせていただくとすれば、日々のディボーションをしたらいかがでしょうか?つまり、毎朝、聖書を読み、そして祈るということです。御言葉に触れ、神との関係を持つということです。私もそうしておりますし、私が訪問している方もそうしていて、その方はいつも会う度にその事を話してくれます。彼は生き生きとしています。教会の礼拝以外に毎日御言葉に触れ、神との関係を持つことによって、日々の生活において、神のことを考え、聖霊が働く機会が増え、それにともなって皆さんがキリスト者として行動する機会が増えると思います。
もちろん、形だけの聖書朗読、形だけのお祈りではいけないと思います。かつて、イスラエルの民が表面上、主なる神に生贄をささげていましたが、心は離れており、不正がはびこっていた時期がありました。主はその献げ物を厭い、結果として民の一部を滅ぼし、残りをバビロン捕囚の憂き目にあわせられました。さらに、見せかけだけの祈り、自分のプライドを表す祈りもまた神に退けられます。例えば、主イエスはこう言われました。
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」
(マタイによる福音書6章5節)
また主イエスは徴税人とファリサイ人の祈りの喩えを取り上げました。人を見下し、自分のプライドを表すファリサイ人の祈りより、自分の身を低くした徴税人の祈りが神に受け入れられたと主イエスはおっしゃられたのです。
(ルカによる福音書18章9節から14節)
色々と話してきましたが、毎日の聖書朗読と祈りというディボーションが私達キリスト者にとって大切だということを今まで話してきました。聖書朗読に関しては週報に載っている毎日の聖書箇所を参考にしていただければ良いかなと思いますし、またこの中の何人かの方々には毎日メールで送っていますので、よろしいかなと思います。
祈りはどうでしょうか?皆さんは毎日祈ってらっしゃるでしょうか?主イエスは地上での伝道で度々祈っておりました。その中で最も印象的な祈りとはやはり主の祈りだと思います。本日私達が唱えた祈りです。もちろん、これはとても大切な祈りですし、他の主イエスがなされた祈りも大切なものなのですが、本日の聖書箇所のダニエルの祈りもまた大切な祈りだと考えるのです。
ダニエルという人物を皆さんご存知でしょうか?私も一度ご紹介したかもしれません。彼はユダ王国がバビロニア王国によって滅ぼされた時、バビロンに連れてこられた捕囚の民の一人でした。彼はユダ族出身で元々イスラエル人の王族もしくは貴族出身の者だったということです。彼は同じユダ族出身のハナンヤ、ミシャエル、アザルヤと共にカルデヤ人の言葉を学び、バビロンの王に仕えるようになりました。そして主なる神はダニエルを助け、様々な出来事を経て、ダニエルはバビロンの中で高い地位につきました。やがてバビロニア王国は滅ぼされますが、ダニエルはその国を継いだ新しい王メディア人ダレイオスの元でも高い地位につきました。神がダニエルを助けたからです。
しかし、ダニエルには憂いがありました。それは故郷であるエルサレムの荒廃といまだ、故郷に帰れずにいるイスラエル人たちでした。そして、ダニエルは文書によってエルサレムの荒廃が預言者エレミヤに告げられたように70周年だと悟り、祈ったのが今日の聖書箇所です。
まず、始めに3節です。断食、粗布をまとうこと、灰をかぶることです。これは心からの懺悔を表します。もちろん、形だけの懺悔というものもありました。服を破るなどです。神は形だけの懺悔で服を破る者に対して「お前たちの服を破るより、心を破れ」と言われました。しかし、ダニエルのこの懺悔は形だけの懺悔ではなく、心からの懺悔であることは後に続く彼の祈りによって明らかです。
5節から15節にかけて、ダニエルは自分達の先祖、そして自分達自身も神の御声に聞き従わなかったという罪を犯してきたという告白をしました。
「罪の告白」と「懺悔」は私達にとって最も難しいことです。私達は自分の非を認めるということがなかなか出来ません。神が預言者をイスラエルの民の元に遣わして、「悔い改めて、神に立ち返りなさい」と民に述べても、彼らは聞く耳を持たず、かえって預言者たちを迫害し、ある者は殺しました。だからこそ、神によってバビロン捕囚という憂き目に遭わせられたのです。しかし、彼らはそんな目に遭っても、自分達の状況に対しては悲嘆するが、「悔い改め」はしなかったのです。そのことはダニエル自身がこの祈りで言っているのです。「モーセの律法に記されているこの恐ろしい災難は、紛れもなくわたしたちを襲いました。それでもなお、わたしたちは罪を離れて主なる神の怒りをなだめることをせず、またあなたのまことに目覚めることもできませんでした。」(ダニエル書9章13節)
ダニエルはこの祈りで自分達の民そして先祖たちの罪の告白と悔い改めをしただけにとどまりませんでした。彼は「神の偉大さ、正しさ、そして憐れみ深さ」を述べています。
「主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って慈しみを施される神よ」(ダニエル書9章4節)、「主よ、あなたは正しくいます。」(ダニエル書9章7節)、「憐れみと赦しは主である神のもの。」(ダニエル書9章9節)などです。
ダニエルはこの祈りの中で自分と自分の民、そして先祖の罪の告白と悔い改めをし、また、神の正しさ、神の偉大さ、畏ろしさ、そして憐れみ深さを述べてきました。しかし、彼の祈りはそれだけにとどまりません。彼はその先を見つめます。それは神の赦しとイスラエルの回復と復興です。彼は悲惨な現状を神に訴えるのです。「エルサレムもあなたの民も、近隣の民すべてから嘲られています。」(ダニエル書9章16節)「神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、わたしたちの荒廃と、御名をもって呼ばれる都の荒廃とを御覧ください。」(ダニエル書9章18節)とダニエルは神に訴えるのです。彼は「自分達がそして、先祖たちが神に逆らってきたのだから、このような罰を受けるのは当然である」と言うのです。それでも、その状態からの回復を憐れみ深い神に願い出ます。ここに悔い改めと赦しがあります。そして、ダニエルが神に赦しを願っている理由は何でしょうか?
それはダニエル自身が述べていることですが、「神の憐れみ」と「神の御名が汚されないため」です。「わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。」(ダニエル書9章18節)
「あなたの都、あなたの民は、御名をもって呼ばれているのですから。」(ダニエル書9章19節)
ダニエルがこの真摯な祈りをしていた時、ガブリエルが発せられた御言葉を理解させようと飛んできたのです。ガブリエルはダニエルにこう言われました。「お前は愛されている者なのだ」(ダニエル書9章23節)つまり、ダニエルの祈りは神に受け入れられているということです。ダニエルの祈りは罪の告白、神を 称える、自分達の正しさではなく、神の憐れみと神の御名による赦しから成っています。これこそが、神に受け入れられる祈りだと思っています。私たちキリスト者もまた、私たちが神に赦されたのも私たちが正しいからではなく、主イエスが十字架の上で亡くなることで示された私達への愛、恵み、そして私たちが主イエスを信じる信仰によるものです。私達はこのダニエルのような素晴らしい祈りはできないかもしれません。しかし、毎日のディボーションで聖書を読み、祈りを捧げることで、聖霊が働き、私達の日々の行動が変えられていくと信じ、日々歩んでいこうではありませんか。
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