「バラムの罪」
2022年7月10日 聖霊降臨節第6主日礼拝
説教題:「バラムの罪」
聖書 : 旧約聖書 民数記22章31-35節(252㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
イスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から主なる神に救われたという話はもう何度か皆さんにお話ししているのでおわかりかと思います。彼らは主なる神に導かれて異邦人が支配する土地を次々と攻略していきます。ということはこの地を支配する人々にとってこのイスラエルの民は恐怖の対象であったということです。このイスラエルの民に恐れを抱いた異邦人達の中にモアブ人がいました。このモアブ人の王はバラクという人だったのですが、イスラエルの民がアモリ人(別の異邦人)に対して行ったことすなわちアモリ人を追い出したことを見ました。
では、このモアブ人の王、ツィポルの子であるバラクはこの進撃してくるイスラエルに対して何をしようとしたかというと、呪(まじな)い師に頼んで呪ってもらう事でした。現代を生きる私達にとってみれば何か滑稽な気もするのですが、当時においては当たり前のことであり、このバラクにとっては真剣な事でした。さて、このバラクが呪いをしてもらいたいと頼んだ相手がバラムという呪い師でした。バラクとバラム、双方似たような名前なので混同しないよう注意していただきたいのですが、バラクがバラムにこのイスラエルの民を呪ってもらうように使者たちを派遣するのです。しかし、バラムは二つ返事でこの申し出を受け入れるような事はありませんでした。この使者たちに「今夜ここに泊まっていきなさい。」と言いつつ、このエジプトから出てきたイスラエルの民を呪っていいかどうかのお伺いをたてたのです。彼の神、主は彼の所に来て、「この使者たちと共に行ってはいけない。この民は祝福されているから、呪ってはならない。」とバラムに命じました。
このバラムという人物は明らかにイスラエル民ではない異邦人です。彼の出自の記載は民数記22章5節に書かれている一文にあります。「ユーフラテス川流域にあるアマウ人の町ペトルに住むべオルの子バラム」(民数記22章5節)
つまりバラムは異邦人ながら、彼の神はイスラエルの民の神と同じだったということです。
バラムは彼の神が命じられたようにこの使者たちと一緒に行くことを拒み、彼らをもと来た場所に帰らせました。
この事に不満を持ったバラクは再度、今度はもっと高位の使者を派遣し、「もし来ていただけるなら、優遇する」という条件までつけて、バラムを呼び寄せようとします。しかし、バラムは毅然(きぜん)として拒みました。彼の毅然さは民数記22章18節に書かれています。「たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません。」
しかし、バラムは再度、彼の神にお伺いをたてます。その結果彼の神は彼の所にやってきた使者たちと共に行ってよいと許可を出しました。しかし「わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない。」という条件付きではあったのです。
そういう状況でバラムはろばに乗り、バラクの所に向かいました。しかし、彼が出発すると、神は怒り、抜身の刀を持った主の御使いがろばに乗ったバラムの前に立ちはだかりました。不思議なことにろばはこの御使いが見えましたが、バラムには見えません。そしてろばはこの御使いをさけるため道をそれて畑に踏み込み、石垣に体を押し付け、最後は座り込んでしまいました。バラムはその度ごとに合計3度もろばを杖で打ちました。すると、ある不思議が起こったのです。主がろばの口を開かせ、ろばはバラムがろばを3度も杖で打ったことを非難しましたが、バラムはろばが彼の言う通り行かないからだと言い返しました。彼のろばに対する怒りは凄まじく、「もし、わたしの手に剣があったら、即座に殺していただろう。」とまで言う始末でした。しかし、ろばは自分がこのように行動したのには理由がありますという趣旨の事を言ったのです。
「わたしはあなたのろばですし、あなたは今日までずっとわたしに乗って来られたではありませんか。今まであなたに、このようなことをしたことがあるでしょうか。」と言ったのです。
バラムはろばに答え、「いや、なかった」と言いました。
バラムがろばを3度杖で打ったこと、そしてろばとの会話で見えてきたことはバラムという人物は考えなしに行動する人物なのではないかということです。もちろん、バラクからの申し出に対してすぐに自分の判断で行動せず、必ず神にお伺いをたて、神が言われるままに行動するので、しっかりとした考えをもった人物だと思いました。しかし、このろばに対する言動を見るに短気、短慮な人物でもあり、このギャップがなかなか理解するのは難しいのです。
やがて神がこのバラムの目を開き、彼にも抜身の刀を持った御使いを見させました。そして本日の聖書箇所の御使いとバラムの会話になるのです。
主の御使いもまたろばと同様にバラムを非難しました。
「なぜ、このろばを三度も打ったのか。見よ、あなたはわたしに向かって道を進み、危険だったから、わたしは妨げる者として出て来たのだ。このろばはわたしを見たから、三度わたしを避けたのだ。ろばがわたしを避けていなかったなら、きっと今は、ろばを生かしておいても、あなたを殺していたであろう。」(民数記22章32節から33節)
この主の御使いに対してバラムは素直に謝罪し、意に反するのであれば、引き返しますとまで言っていますが、御使いは行ってもよいが、自分が告げることを告げなさいと再度忠告しました。
この後、バラムはバラクの元に行き、神が彼に命じたように告げました。それはバラクの意図した呪いではなく、祝福だったのです。
しかし、ここで疑問が一つあります。そもそもなぜバラムは神の怒りを買ったのでしょうか?一連の流れを見ますと、バラムは神の御心に従って行動しています。最初、バラクからの使者が来た時神にお伺いをたてました。そして「使者たちと一緒に行ってはいけない。イスラエルの民を呪ってはいけない。」という神の指示に従って使者たちと一緒にバラクの元に行きませんでした。再度さらに高位の使者たちが来たときにも、再度神にお伺いをたてて、神が使者たちとバラクの元に行くのを許可したので行ったのです。しかし神は怒られ、抜身の刀を持った神の使者が彼の行く手に立ちふさがるという事態になっています。神の行動は矛盾しているのではないか?理不尽ではないか?と思わなくもありません。
しかし、この一見すると矛盾していて、理不尽な神の言動にはきちんとした理由があります。まず、このバラムが二度目のバラクの使者たちの訪問を受けたときの出来事です。私は先程バラムが毅然としてバラクからの申し出を拒んだと言いました。しかしこの後、バラムは再度、神にお伺いを立てるのです。一度目にすでに神からの「使者たちと一緒に行ってはならない、呪ってはならない。」という命令を受けたのであれば、なぜあえて再度神にお伺いをたてたのでしょうか?ここに彼の迷い、もしかすると金銀への執着があったのかもしれません。18節でバラムはバラクからの金銀よりも神の命令を優先すると言っていますが、もしかするとやはり彼は金銀が欲しかったのかもしれません。つまり、18節も次のように解釈することも出来るのです。もし、神が許してくれさえすれば、バラクからの金銀を受け取ることが出来るというふうに思っていたのかもしれません。そういう期待を込めて、再度バラムは神にお伺いをたてたのかもしれません。ですが、これはやはり神より金銀を優先していると言わざるを得ないのです。結果として、神はバラムが行くのを許しましたが、神の怒りが燃え上がり、あのようにバラムの行き手に神の御使いが立ちふさがり、バラムの命の危険まであったわけです。このように一見すると神に従っているように見えても、こころの深い部分で神の御心に反した行動をとっていることが私達にもあります。私達がそれを自覚しているか、していないか別にしてそういう行動を取っていることがあるのです。そのことを気づかせてくれるのは、そして修正させてくれるのは聖霊の働きなのです。
先程も言ったように、バラムは神が彼に命じたようにイスラエルの民に祝福を与えました。表面上彼は神のご命令に従ったのです。ですから彼は聖書に出てくる神に従った人物たちと同じように評価されていいはずなのです。ですが、彼はそのように評価されませんでした。むしろ聖書の中では非難の対象でした。
「彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。」(IIペトロの手紙2章15節から16節)
「不幸な者たちです。彼らは『カインの道』をたどり、金もうけのために『バラムの迷い』に陥り、『コラの反逆』によって滅んでしまうのです。」(ユダの手紙1章11節)
何れの手紙でも神に反逆した者たちの対象としてバラムが挙げられています。
バラムの最後はどうだったのでしょうか?ヨシュア記13章22節に書かれていますが、イスラエルの民が彼を殺しました。彼は占い師として殺されたのです。一見すると神に従っている人生、しかしその実、神に従っていない人生をバラムは辿りました。果たして私達の人生はどうでしょうか?もし、バラムのような人生であるのなら、聖霊によって修正していただき、主イエスに従う人生に変えていただこうではありませんか?
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