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「メシアへの信仰」

2024年2月25日 受難節第2主日 

説教題:「メシアへの信仰」

聖書 : エフェソの信徒への手紙 5章6節-14節(357㌻)​​

説教者:伊豆 聖牧師


 このエフェソの信徒への手紙は使徒パウロが小アジアと呼ばれた地域、トルコのエフェソスにある信仰共同体の人々に送った手紙だと言われています。書かれた時期は紀元62年頃で、その頃パウロは裁判を受けるためにローマで投獄されていました。もっとも投獄されていたといっても、彼は割合行動の自由が許されていたということでした。さて本日の聖書箇所だけをみると何か律法主義的だなと思われるかもしれません。なぜなら、否定的命令の言葉「なりません。」や命令の言葉「引き入れられないようにしなさい。」、「歩みなさい。」、「吟味しなさい。」、「明るみに出しなさい。」、「用いなさい。」が多く使われているからです。そしてそういう言葉を聞くと人は嫌になってしまいます。反発してしまいます。そんな命令に従ってなんてやるものかと思ってしまいます。なぜなら人は束縛されるのが嫌だからです。自由がいいからです。確かにここだけを取ってしまうと道徳の授業で味気のないものなのですが、この手紙全体を見てみますとそうではないということがわかります。

 第1章で神はご計画に従って御子主イエス・キリストを通してエフェソの信徒たちを救われたことが述べられています。その事は神からの一方的な恵みであるということです。その事の証明は聖霊によるものであるということです。

 第2章ではエフェソの信徒たちは「以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」と書かれています。(エフェソの信徒への手紙2章1節)どういうことでしょうか?肉体的には生きていて、食べたり、飲んだり、休んだり、寝たりすることが出来ますが、霊的には死んでいたということです。なぜなら主イエス・キリストを受け入れていなかったからです。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」(2節)と書かれている通りだからです。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」とは何かといいますとサタンです。サタンというと何かオカルトめいている、もしくは非現実的だという批判をされそうなのですが、やはりその影響力というものは現代でもあると私は思うのです。

 国外ではウクライナとロシアの戦争、ハマスとイスラエルの戦争があります。国内では親が子供を虐待し、殺してしまうということがまたありました。国会議員が裏金を作っていたことが発覚し、批判を浴びています。口では謝罪を口にしますが、税金を納めることはせず、今後このようなことが起こらないようにする仕組みも作ろうとはしません。税務署もこれに対処する様子はありません。

 先生、これらは人が悪いのであって、悪魔のせいにするのはおかしいです。悪魔のせいにするのは人としての責任を放棄しているし、第一オカルトじみているのではないですか?という声が聞こえてきそうですね。私は何もこれらに関与している人々の責任を放棄させようとはしていませんし、それらを少なくするつもりでもありません。                        

 ですが人の責任というだけでこれらの問題を考えるだけで良いのでしょうか?例えばウクライナとロシアの戦争を見てみましょう。ウクライナは北大西洋条約機構NATOに加盟しようとしました。それはロシアの脅威から自国を守るためでした。しかしこれが逆にロシアにとって脅威と取られました。またロシア政権が「ロシア人とウクライナ人は一体である。」と主張し、ロシアはウクライナに侵攻しました。ああ、ロシアという軍事大国があり、それに対抗するために北大西洋条約機構NATOという組織ができて、長年ロシアに脅かされていたウクライナがそこに入ろうとしたから、これを理由にまたロシア・ウクライナ同一説という勝手な理由をつけて領土拡大をねらって侵攻したんだなと言えますね。極めて人間的なようですが。それだけでしょうか?なぜNATOが出来たのでしょう?それはロシアが領土を拡大しようとして他国に侵攻しようとしたからですね。それはロシアのトップの人々がそういう考えを持ち続けているからです。彼らがそういう考えを持っているということは彼らが悪い、彼らが罪を犯しているというだけで良いのでしょうか?もしかすると彼らもまた「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」といえるのではないでしょうか? 

 裏金を作り、税金を納めることがない政治家の人々は何が原因でそういうことをしているのでしょうか?欲ですね。税金を払わなくて良いお金を好き放題使うことが出来るということです。もちろん、彼らが欲深く、悪く、罪に歩んでいることは確かなのですが、彼らもまた目に見えない者、悪魔に支配されているのではないかと思うのです。つまり「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」ということです。

 何度も言いますが、私はこのことをもって彼らの人間的な責任を放棄させようというつもりはないのです。ただ目に見えないサタンの影響力というものが現実に存在していると思うのです。なぜなら、私達は目に見えない聖霊の力、そして信仰の力を信じているのですから。

 さて、エフェソの信徒の人たちはキリストを受け入れる前にはサタンに従って罪に歩み、霊的に死んでいたが、キリストを受け入れる信仰によって、そして神の恵みによって生きるようになったと書かれています。そしてさらに詳しくその事が書かれています。エフェソの信徒の人たちは異邦人が多かったのでしょう。エフェソ2章11節から13節でパウロはこう述べているのです。異邦人であるあなた達は本来ユダヤ人ではない、神の選ばれた民ではないので、救われることはなかった。しかし、キリスト・イエスの血によって救われるようになった。そして14節から15節でユダヤ人と異邦人が神の民として一体となり、肉においての敵意すなわち罪と律法が取り除かれたということです。「一人の新しい人を造り上げて」と書かれていますが、これは教会です。といっても実際のエフェソの教会ではなく、普遍的教会、つまり神の教会というものです。

 3章はその事を踏まえた上でキリストへの信仰に固く立つことによってキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解しなさいとパウロはエフェソの信徒達に推奨している。キリストの愛は人知を超えたものであると述べています。

 

 さて、随分遠回りしましたが、本日の聖書箇所です。「むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。」(エフェソの信徒への手紙5章6節)                       

「むなしい言葉」とは何でしょうか?テレビを見るのですが、ワイドショー、ニュース番組、討論番組でも何か心に響く言葉が聞かれなくなりました。ですので最近はあまり見ないのですが。なんといいますか、軽薄な言葉、一聴すると正しいように論理立てているけれども、言い訳にしかならない言葉、法律的に正しいだけの言葉、お笑いで溢(あふ)れています。昔は政治家の言葉や経営者の言葉はもう少し重みがあり、一聴に値すると思ったのですが、最近は駄目ですね。このような言葉を「むなしい言葉」というのではないでしょうか?私達は気をつけなくてはなりませんし、7節の「彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。」ということを肝に命じなければなりません。真実の言葉は御言葉であり、神から来るということを忘れてはいけません。もちろんだからといって、聖書だけ読んでいれば良いということではありませんし、この世の事に無関心でいなさいということでもありません。ただこの世に倣ってはいけないということです。8節ではこのように書かれています。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」

 あなた方は暗闇だったんだ。どうしようもない状態だったのだ。だけれどもそこから贖われたのだということを忘れてはいけませんということです。ペトロも第一ペトロ2章9節でこのように言っています。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」

 そして「主に結ばれて光となっています。」は「主に結ばれて」という言葉が重要です。一人で光になっているのではないということです。ヨハネによる福音書15章1節から8節で主イエスはぶどうの木と枝との関係でその事を表されました。

そして主イエスご自身がこのように仰っています。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイによる福音書5章14節から16節)

 この聖句は本日の聖書箇所8節から14節を表しています。始めに私は本日の聖書箇所は命令形ばかりで実に滅入ってしまうものだと申し上げました。しかし、このエフェソの信徒への手紙の前半部分、つまり1章から3章を読み、どうしようもない私達がいかに神の恵みによって救われたかが分かると、自然と本日の聖書箇所を受け入れることが出来るかと思います。私達が本日の聖書箇所を実践するためにはメシアへの信仰、主イエス・キリストへの信仰がなくてはなりません。それが与えられるよう祈ろうではありませんか。

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