「ヤコブの梯子」
2022年9月18日 聖霊降臨節第16主日礼拝
説教題:「ヤコブの梯子」
聖書 : 旧約聖書 創世記 28章10-22節(46㌻)
新約聖書 ヨハネによる福音書 1章43-51節(165㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
本日の最初の聖書箇所に登場するヤコブという人物は有名な人物です。以前何回か説教でお話しさせていただいたと思いますし、皆さんも長い信仰生活の中で幾度となく、この人物についての説教をお聞きかと思います。彼はイスラエル人の父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブの中の一人です。エジプトで奴隷状態であったイスラエル人を主が解放された時、リーダーとして主がお立てになられたモーセは確かにイスラエル人に尊敬されており、重要な人物です。私は以前ユダヤ教の礼拝に出席させて頂いたことがあるのですが、そこでは出エジプトの中で行われた偉大な主の御業を出席された会衆は讃え、さらにモーセに対する尊敬の言葉を聞く事ができました。いかにモーセという人物がイスラエル人に重要視されているかという事、そして出エジプトという出来事がいかにイスラエル人にとって大切な事だったかという事を実際に肌で感じました。
しかし、このイスラエル人の父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブという人々もまた彼らイスラエル人にとって大事な人々であります。もし、主によるアブラハムの選びがなければ、主によるイスラエル人の選びもなかったわけです。そして、エジプトで奴隷状態のイスラエル人を救い、約束の地に導き入れられたのも、主がアブラハム、その子、イサク、孫のヤコブと交わした約束によるのでありました。主がモーセを召命した時、モーセが主の名前を訊ねたのですが、主がお答えになられた名前の一つは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」でした。いかに、イスラエル人の父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブがイスラエル人にとって重要な人達であったかがお分かりになるかと思います。
さて、本日の最初の聖書箇所に出てくるのはこのイスラエル人の父祖の最後の一人ヤコブです。聖書に出てくる主に選ばれた人物は必ずしも一般的に見て、主に選ばれるような品行方正な人物ではないという事を先週のサムソンの説教でお話しさせて頂きました。この主に選ばれた、イスラエル人の父祖であるヤコブもまた、この人生の前半部分を見てみると、主に選ばれるような人物ではありませんでした。
そもそも彼の名前からしてあまり良くありません。「ヤコブ」とは「踵を掴む者」「出し抜く者」です。この言葉から私達が思い浮かべるのは狡賢く、裏でこそこそ立ち回り、自分の利益を確保するという悪い人物です。実際彼はそうだったのです。まず、彼の出生の時、彼の母であるリベカの腹の中で、彼の兄のエサウと押し合っていて、兄のエサウの踵を掴んで出てきました。ですので「ヤコブ」と名付けられたのです。出生後、彼は狡猾なやり方で兄エサウから「長子の権利」を奪い、兄エサウが貰うべき「祝福」を父イサクを騙して、奪いました。当然、エサウは彼に怒り、殺そうとしました。その事を聞いた母リベカが一計を案じ、彼を彼女の兄の家に送ろうとしました。母リベカがヤコブを彼女の兄の家に送ろうとしたもう一つの理由はエサウが結婚した女性が現地のカナンの女性でその事が彼女の気にいらなかったからです。リベカはイサクに働きかけ、イサクはヤコブに言いました。母リベカの兄の家に行き、そこから嫁をもらうようにと。ここまで長々とお話ししてまいりましたが、本日の第1の聖書箇所はそのような状況の中、ヤコブが彼の伯父の家に行く途中で起こった出来事なのです。
状況を考えれば、この旅はヤコブにとってあまりいいものではなかったと思われます。確かに表面上伯父の家から嫁を迎えるという意味では良いのかもしれませんが、結局のところ兄エサウに殺されそうになったから、家族から離れて生活する、緊急避難するという事です。もちろん、これも自業自得というものですが、彼の心の中は不安で一杯だった事でしょう。果たして、伯父は快く、迎えてくれるだろうか、そもそも無事に伯父の家に着く事ができるだろうかといった様々な不安が彼の心をよぎったことでしょう。
そんな旅の途中で彼は眠りについたのですが、彼は夢を見たのです。その夢の中で彼は天から地に向かって伸びた階段とそこを昇り降りする天使達を見たのです。(創世記28章12節)
さらに、彼は主ご自身が彼の傍に立って彼と彼の子孫への祝福を述べられるのを聞いたのです。(創世記28章13節から15節)
先程も申し上げたように、彼の人生の前半部分を見れば、なぜ主はこのような人物を祝福したのか分りません。しかし、主は確かにこのヤコブを選ばれたのです。それは主の彼に対する祝福の言葉を見れば分りますし、彼が生まれた時にも主は母リベカに「……兄が弟に仕えるようになる。」(創世記25章23節)と仰られました。また、マラキ書1章2節から3節にはこのように書かれています。「主は言われる。しかし、わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」
さらに、パウロはこのように言っています。「… リベカが、一人の人、つまり私たちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に使えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」(ローマの信徒への手紙9章10節から13節)
ここでは「自由な選びによる神の計画」という言葉に注目です。
この事によってヤコブは主に選ばれ、主のご計画に従って歩みました。
主の選びとご計画ということであれば、本日の第2の聖書箇所もそうです。主イエスがフィリポとナタナエルを召命なされた話ですが、フィリポは主イエスに直ぐ従ったのですが、ナタニエルはフィリポから主イエスの事を聞いた時、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言って、拒絶しました。しかし、主イエスと直接会い、主イエスが実際に見ないうちから彼の事や彼がフィリポと話している状況をお語りになったのを聞いて、主イエスを信じました。その時、主イエスがお語りになられたのが、ヨハネによる福音書1章51節に書かれています。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
これはヤコブが見たのと同じ光景をフィリポ、ナタナエルという主イエスの弟子たちも見るようになるという事です。主イエスの弟子になるという事はヤコブのように主に選ばれ、祝福されるという事です。そして、ヤコブの場合、その夢を見た場所自体が聖なる土地という認識でした。だからこそ、彼は自分が枕した石を記念碑として油を塗り、その土地をベテル(神の家)と名づけたのです。
しかし、主イエスが仰られたのは「神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」という事です。「人の子」とは主イエスがご自身を表現なさる時に使われる言葉です。ですので、この場合、土地ではなく主イエスこそがベテル(神の家)であり、天への階段、天への梯子でもあるという事です。主イエスを通して、父なる神のご意志がこの地上の人々に伝えられ、また主イエスを通して、人々は神の国に行く事ができるという事です。
この地上において、主イエスは御言葉を伝えられ、御業を示されこの事を示されました。「…わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」(ヨハネによる福音書12章49節)
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネによる福音書14章6節)これらの御言葉は主イエスが神の家(ベテル)であり、天への階段であるということを示しています。そして、主イエスは十字架での死によって私たちの罪の贖いをし、復活によって私達に神の栄光を表したのです。そして、私達はその事を信じる信仰によって救われたのです。
しかし、その事は私達に自分達が主を選んだという意識を持たせてしまう可能性があるのです。それは誤解なのです。そうではないのです。主が私たちを選んだのです。ヤコブが主を選んだのではない、フィリポ、ナタナエルが主イエスを選んだのではないという事です。逆なんですね。主がヤコブを選び祝福した。主イエスがフィリポ、ナタナエルを選び祝福したのです。
逆転の発想なのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。…」(ヨハネによる福音書15章16節)と書かれている通りです。
しかし、さらなる逆転の発想があります。つまり、選ばれた私たちもまた主に似たものとされたいという願い、主イエスを捕らえたいという思いを持つのです。
それはパウロがフィリピの信徒への手紙3章12節で述べています。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。なんとかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」キリスト・イエスに捕らえられているとは主イエスに選ばれたという事です。そこから発展して、パウロはなんとかして捕らえようとしているのです。
私たちもまたヤコブ、フィリポ、ナタナエルのように主に選ばれ、主に祝福され、そして主に捕らえられたのです。ですから、今度は私たちもまた捕らえようとしようではありませんか?パウロのように。
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